恵王常に趙を撃たんとしたが楚を畏れて手控えいた、今楚が魯を事として他を顧みる暇《いとま》なきに乗じ兵を発して趙の都邯鄲を囲んだというので、セルヴィアの狂漢が奮うて日本に成金が輩出したごとく、事と事が間接に相因るを意味す。インドにも右様の譬えがある。『雑宝蔵経』八に下女が麦と豆を与《あずか》り居ると、主人の家の牡羊が毎度盗み食い減らすから主人に疑わるるを憤り、羊を見る度《たび》杖で打ち懲らす。羊も下女を悪《にく》みその都度|觝触《つきかか》る。一日下女が火を取りおり、杖を持たぬを見て羊直ちに来り襲う。下女|詮方《せんかた》なさにその火を羊の脊に置くと羊熱くなりて狂い廻り、村に火を付け人多く殺し山へ延焼して山中の猴《さる》五百疋ことごとく死んだ。諸天これを見て偈《げ》を説いていわく、〈瞋恚《しんい》闘諍間、中において止むるべからず、羝羊《ていよう》婢とともに闘い、村人|※[#「けものへん+彌」、第3水準1−87−82]猴《びこう》死す〉と。『菩薩本行経』には、一婦人|※[#「麩」の「夫」に代えて「少」、第4水準2−94−55]《こがし》を作る処へ羊来り盗むを、火を掻《か》く杖に火の著いたまま取り上げて打つと羊毛に燃え付いた。そのまま羊が象|厩《べや》に身を摺《す》り付くると、いよいよ火事となりて象も猴も焼け死んだとある。象厩に猴を畜《か》えば象を息災にすとシャムでも信ずる由、クローフォールドの『暹羅《シャム》使記』に見ゆ。
『説苑』七に楊朱《ようしゅ》が梁王に見《まみ》えて、天下を治むる事|諸《これ》を掌《たなごころ》に運《めぐ》らすごとくすべしという。梁王曰く、先生、一妻一妾ありて治むる能わず、三畝の園すら芸《くさき》る能わざるに、さように容易《たやす》く天下を治め得んやと。楊朱曰く、君かの羊を見ずや、百羊にして群るれば五尺の童子一人杖を荷《にの》うてこれを東西思いのままに追い得るがごとし、堯をして一羊を牽《ひ》き舜をして杖を荷うてこれを追わしめば、なかなか思いのままにならぬ、すなわち乱の始めだ。大を治めんとする者は小を治めず、大功を成す者は小苛《しょうか》せずと。
 末吉安恭氏来示に、琉球人は山羊を温柔な獣とせず、執拗|剛戻《ごうれい》な物とす。縄にて牽き行く時その歩を止めて行かぬ事あり、その時縄を後に牽かば前に出づるも前に牽かば退くのみなり、故に山羊は天《あま》の
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