経』一)。『修行本起経』に紺馬宝は珠の鬣《たてがみ》を具うとあるもこれだ。紺青色の馬はあり得べからぬようだが、これはもと欧亜諸国に広く行わるる白馬を尊ぶ風から出たらしい。白馬が尊ばるる理由は、多般だがその一を述べると、明の張芹の『備辺録』に、兵部尚書《ひょうぶしょうしょ》斉泰の白馬極めて駿《と》し、靖難《せいなん》の役この馬人の目に立つとて墨を塗って遁げたが、馬の汗で墨が脱《お》ちて露顕し捕われたとある通り、白馬は至って人眼を惹く。したがって軍中白馬を忌む。しかるにまた強いと定評ある輩がこれに乗ると、同じく敵の眼に付きやすくて戦わぬ内に退いてしまう。『英雄記』曰く、〈公孫※[#「王+贊」、第3水準1−88−37]《こうそんさん》辺警を聞くごとに、すなわち色を※[#「厂+萬」、第3水準1−14−84]《はげし》くし気を作して、讎に赴くがごとし、かつて白馬に乗り、また白馬数十匹を揀《えら》び、騎射の士を選ぶ、号《な》づけて白馬義従と為《な》す、以て左右翼と為して、胡《こ》甚だこれを畏る〉。『常山紀談』に、勇士中村新兵衛、平生敵に識れ渡りいた猩々緋《しょうじょうひ》の羽織と唐冠の兜《かぶと》を人に与えて後《のち》戦いに臨み、敵多く殺したが、これまで彼の羽織と兜を見れば戦わずに遁げた敵勢が、中村を認めずこれを殺してしまった。敵を殺すの多きを以て勝つにあらず、威を輝かし気を奪い勢いを撓《たわ》ますの理を暁《さと》るべしと出《い》づ。この理に由って白馬は王者猛将の標識に誂《あつら》え向きの物ゆえ、いやしくも馬ある国には必ず白馬を尊ぶ。
『礼記《らいき》』に春を東郊に迎うるに青馬七疋を用いるの、孟春の月天子蒼竜(青い馬)に乗るなどとあり。わが朝またこれに倣《なろ》うて、正月七日二十一疋の白馬を引かれ、元の世祖は元日に一県ごとに八十一疋の白馬を上《たてまつ》らしめ、その総数十万疋を越えたという。白馬節会《あおうまのせちえ》の白馬を青馬と訓《よ》ますを古く不審《いぶか》しく思うた人少なからぬと見え、平兼盛《たいらのかねもり》が「ふる雪に色もかはらて曳《ひ》くものを、たれ青馬と名《なづ》け初《そめ》けん」と詠んだ。しかるにその雪や白粉も、光線の工合で青く見えるから白を青と混じ呼んだらしい(「白馬節会について」参照)。さて高山雪上に映る物の影は紫に見える故、支那で濃紫色を雪青と名づく(一九〇六年二月二十二日の『ネーチュール』三六〇頁)。光線の工合でインド北方の雪山など紺青色に見えるはしばしば聞くところで、青と等しく紺青色も白と縁薄からねば、白馬の白を一層荘厳にせんとて紺青色の馬を想作したのだろう。タヴェルニェーなどの紀行に見ゆるは、インド人はしばしば象犀や馬を色々彩って壮観とする由。支那で麒麟《きりん》は五彩を具うなどいうもこんな事から起ったらしく、かかる異色の畜類を見てその人為に出るを了《さと》らぬ人々は、必ず紺青色の馬も自然に存在すと信じたであろう。
 仏典に載った馬譚を今一つ二つ挙げよう。『大荘厳経論』にいわく、ある国王多く好馬を養う。隣国王来り戦いしがその好馬多きを知り、とても勝てぬと諦め退去した。かの王|惟《おも》えらく、敵国既に退いた上は馬が何の役にも立たぬ、何か別に人の助けになる事をさせにゃならぬと。すなわち勅して諸馬群を分ちて人々に与え、常に磨《うす》挽《ひ》かしめた。その後多年経て隣国また来り侵す。すなわち馬どもを使うて戦わしむるに、馬は久しく磨挽きばかりに慣《な》れいたので、旋《めぐ》り舞い行きあえて前進せず。捶《う》てば打つほどいよいよ廻り歩き、戦争の間に合わなんだと。知れ切った道理を述べた詰まらぬ話のようだが、わが邦近来何かにつけて、こんな遣り方が少ないらしくないから、二千五百年前のイソップに生まれ還った気になり、馬譚を仮りて諷し置く。それからラウズ訳『仏本生譚《ジャータカ》』に、仏前生かつてビナレスの梵授王に輔相たり。王の性貪る。悍馬《かんば》を飼いて大栗と名づく。北国の商人五百馬を伴れ来る。従前馬商来れば輔相これに馬の価を問い答うるままに仕払って買い取るを常例とした。しかるに王この遣り方を悦ばず、他の官人をしてまず馬商に馬価を問わしめ、さて大栗を放ちてその馬を咬ましめ、創《きず》つき弱った跡で価を減ぜしめた。商主困り切って輔相に話すと、輔相問う、汝の国許に大栗ほどの悍馬ありやと。馬商ちょうどその通りの悪馬ありて強齶《あごつよ》と名づくと答う。そんなら次回来る時それを伴れて来いと教えた。その通りに伴れて来たのを窓より見て王大栗を放たしむると、馬商も強齶を放った。堅唾《かたず》を呑んで見て居ると、二馬相逢いて傾蓋《けいがい》旧のごとしという塩梅《あんばい》に至って仲よく、互いに全身を舐《ねぶ》り合った。王怪しんで輔相に尋ねる
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