》とも思わず一心に走り廻って、牡猫の情を受け返るを、知らぬは亭主ばかりなりで、猫を木の股から生まるるごとく想いいたのだ。そのごとく、馬が交会せずに孕み生むを見て、始めは人に見えぬよう竜と交わると信じたが、追々は竜の精を含める水さえ呑《の》めば孕むと想い、甚だしきは女護島《にょごがしま》の伝説同様、ある馬は風に孕まさるといった。
プリニウスいわく、ルシタニア(ポルトガル)のオリシポ城(今のリスボン)近所の牝馬、西風吹く時西に向えば孕み、生むところの駒は、極めて疾《と》く走れど三歳以上活きず。その隣邦ガリシアとアスツア(今スペインの内)には、チェルドネなる馬種あり、他の諸馬に異なりて、同じ側の二脚を揃えて動かし、やすやすと歩む。世に四を履《ふ》むてふ馬の歩きぶりは、これに倣うて教え込んだのだと。熊楠いわく、駱駝、駝羊《ラマ》、豹駝《ジラフ》、獅子は、同じ側の二脚を同時に進めるが、その他の諸獣いずれも前後左右の脚、交互前後して行く。人も走りまた歩む時手を振るに、右手と左足と遠ざかる時、左手と右足と近づき、右手左足近づく時、左手と右足と遠ざかる。馬またこの通りなるに、生まれ付いて駱駝流に行《ある》く馬があったとは眉唾物《まゆつばもの》だろう。しかし教えさえすればさように歩かしむるを得。シリア人は、ラファン体に歩く馬を賞美し、右の前足と右の後足と、而《しか》して左の前足と左の後足を相《あい》繋《つな》いで、稽古せしむ。もっともその技に長ぜる馬は、いかほど姿醜く素情悪くともすこぶる高値に売れる。人を騎せてこの風の足蹈みで疾走するに、その手に持てる盃中の水こぼれず。ダマスクスを出でて八、九時間でベイルートに著《つ》く。この距離七十二マイル、その間数千フィートの峻坂を二度上下せにゃならぬとは、驚き入るのほかなし。
『甲陽軍鑑』一六に、馬に薬を与うるに、上戸《じょうご》の馬には酒、下戸《げこ》の馬には水で飼うべし、馬の上戸は旋毛《つむじ》下り、下戸は旋毛上るとあり。馬すら酒好きながある。人を以てこれに如《し》かざるべけんやだ。プリニウスいわく、騾が人を※[#「足へん+易」、第4水準2−89−38]《け》るを止めんとならばしばしば酒を飲ませよと。誠に妙法で、騾よりも吾輩《われら》にもっともよく利く。かつてアイルランド人に聞いたは、かの国で最も強く臭う烟草《タバコ》の烟《けむり》を、驢の鼻へ吹き込むと、眼を細うし気が遠くなった顔付して、静まりおり、極めて好物らしいと。バスク人の俗信に、驢を撲《う》ち倒しその耳に口を接して大いに叫び、その声終らぬうち大きな石でその耳を塞《ふさ》ぐと、驢深く催眠術に掛かったごとく一時ばかり熟睡して動かずと。
心理
性質の項に書いた秦王が燕の太子丹に烏の頭が白くなり馬に角が生えたら帰国を許そうと言う話に似たのが西暦紀元前三世紀頃ユダヤ人ベン・シラが輯《あつ》めたちゅう動物譚中に出《い》づ、いわく上帝万物を創造し終ると驢が馬と騾に向い、他の動物皆休み時あるに、われらのみこれなく不断働かにゃならぬとは不公平極まる、因って多少の休み時を賜えと祷《いの》ろうと言って祷ったが上帝許さず。汝の尿が水力機を動かすほどの川となり汝の糞が馥郁《ふくいく》と芳香を発する時節が来たら汝始めて休み得べしと言った。爾来驢|毎《つね》に他の驢の尿した上へ自分の尿を垂れ加え糞するごとに必ずこれを嗅《か》ぐと。かつて一八〇四年ミナルノ版『伊太利古文学全集《クラスシチ・イタリヤ》』に収めある十五、六世紀の物に、人が大便したら必ずそれを顧み視るは何故ぞてふ論あるを読んだが書名も委細も記憶せぬ。古今東西人|毎《つね》にかかる癖ありや否やを知らねど、牛が道中で他の牛の小便に逢わば必ず嗅いで後鼻息吹き、猫犬が自分の糞尿を尋ねて垂れ加え、また諺に紀州人の伴《つれ》小便などもいわば天禀《てんぴん》人にも獣畜類似の癖あるのが本当か。就《つ》いて想い出すはベロアル・ド・ヴェルヴィルの『上達方《ル・モヤン・ド・パーヴニル》』三十九章にアルサスのある地の婦女威儀を重んずる余り七日に一度しか小便せず、火曜日の朝ごとに各の身分に応じ隊伍を編み泉水に赴《おもむ》き各その定めの場について夥しく快げにかつ徐《しず》かにその膀胱《ぼうこう》を空《あ》くる。その尿|聚《あつま》って末ついに川をなし流れ絶えず、英独フランドル諸国人その水を汲み去り最優等の麦酒《ビール》を作るを、妻どもこれは小便を飲む理屈だとて嫌うとある。随分思い切った法螺《ほら》話のようだが、わが邦でも昔摂津で美酒出来る処の川上に賤民牛馬皮を剥《は》ぎ曝《さら》すを忌んで停止せしむると翌年より酒が悪くなったといい、紀州有田川の源流へ高野《こうや》の坊主輩が便利する、由ってこの川の年魚《あゆ》が特に肥え美味
前へ
次へ
全53ページ中27ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
南方 熊楠 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング