殖えず、鵲《かささぎ》は両肥両筑に多いと聞けど昔もそうだったか知らぬ。
篤信が引いた『旧事記』は怪しい物となし措《お》くも、保食神の頂より牛馬|化《な》り出《で》しと神代巻一書に見え、天斑馬《あまのぶちこま》の事と、日子遅神《ひこじのかみ》、片手を馬鞍に掛けて出雲より倭国に上った事とを『古事記』に載すれば(『古今要覧稿』五〇九)、〈牛馬なし〉と書いた『後漢書』は、まるで信《うけ》られぬようだが、この他に史実に合った事ども多く載せ居る故、一概に疑う事もならず、地理の詳細ちょっと分りにくいが、朱崖※[#「にんべん+擔のつくり」、第3水準1−14−44]耳という小地に近く、土気温暖、冬夏菜茹を生ずる日本の一部分、もしくは倭人の領地に、牛馬がなかったと断ずべしだ。日本上古の遺物に、牛馬飼養の証左ある由は、八木、中沢二君の『日本考古学』等に出づ。同じ『後漢書』東夷列伝に、辰韓《しんかん》は秦人(支那人)が馬韓《ばかん》より地を割《さ》き受けて立てた国で、〈牛馬に乗駕す〉と特書せるを見ると、当時韓地にも牛馬を用いぬ所があったので、千年ほど前出来た『寰宇記《かんうき》』に、琉球に羊と驢と馬なく、〈騎乗を知らず〉といえるもその頃そうであったのだ。
かつて出羽の飛島《とびしま》へ仙台の人渡れるに、八十余の婆語りしに、世には馬という獣ありと聞けり、生前一度馬を見て死にたしと(『艮斎間話《ごんさいかんわ》』上)。二十余年前まで但馬《たじま》因幡《いなば》地方で馬極めて稀なり、五歳ばかりの児に馬を知るやと問うと、顔を長く四疋《よつあし》と尾あり人を乗せると答う。大きさを尋ぬると両手を二、三寸に拡げ示し、その大なるものは下に車ありと答う。絵と玩具のほか、見た事ないからだと(『理学界』一月号、脇山氏説)。紀州でも、日高郡奥などに馬なき地多かった。また大和に、去年まで馬見た事ない村あったと、それ八月八日の『大毎』紙で読んだ。昨今すらこの通り、いわんや上世飼養の法も知らず、何たる要用もなく、殊には斎忌《タブー》の制煩多で、種々の動植を嫌う風盛んだった時に、牛馬のない地方が、わが邦に少なくなかったと攷《かんが》える。想うにわが邦神代の馬は、「種類」の条で述べた、北方の馬種を大陸より伝えたのを、後世良馬を支那より輸入した事、貝原氏の説通りだろう。
『大英百科全書』またいわく、馬属の諸種外形の著しく
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