》み虐げた報いですと、馬の足を捧げ申謝して去った。その商主は侍縛迦《じばか》太子、智馬は周利槃特《すりばんたか》の前身だったから、現世にもこの太子が周利槃特を侮り後《のち》懺謝するのだと、仏が説かれたそうじゃ。
 梵授王が智馬を有する間は隣国皆服従し、智馬死すると聞いてたちまち叛《そむ》き去ったとは信《うけ》られがたいようだが、前達《せんだっ》て『太陽』へ出した「戦争に使われた動物」てふ[#「てふ」に「〔という〕」の注記]拙文中にも説いた通り、昔は何地《いずく》の人も迷信重畳しおり、したがって戦術軍略の多分は敵味方の迷信の利用法で占められ、祥瑞の卜占のという事兵書筆を絶えず。されば何がな非凡異常の物を伴れ行かば敵に勝つを得たので、近時とても那翁《ナポレオン》三世が鷲《わし》を馴らして将士の心を攬《と》ったり、米国南北戦争の際ウィスコンシンの第八聯隊が鷲を伴れ往きて奮闘し、勝利事果てその鷲をその州賓として養い、フィラデルフィアの建国百年祝賀大博覧会へも出して誇り、長命で終った遺体を保存して今も一種の敬意を表し居る。まして馬には時として人に優った特性あるのもあれば、弱腰な将士の百千人にずっと勝《すぐ》れた軍功を建つるもあり。それに昔は人|毎《つね》に必ず畜生に勝《まさ》るてふ法権上の理解もなかった(ラカッサニュの『動物罪過論《ド・ラ・クリミナリテー・シェー・レー・ザニモー》』三五頁)。したがって人間勝りの殊勲ある馬を人以上に好遇し、甚だしきは敵味方ともこれを神と視《み》て、恐れ崇めたのだ。
 馬に人勝りの特性ある事は後文に述べるとして、ここには少々馬を凡人以上に尊重した例を挙げんに、宋の姚興その馬を青獅子と名づけ、時に同飲してわれ汝と同力報国せんと語る。後《のち》金兵来寇するに及び、所部四百騎もて十余戦せるも、大将王権はまず遁《のが》れ、武将|戴皐《たいこう》は来り援《すく》わず、興ついに馬とともに討死《うちじに》せるを朝廷憫んで廟を建てた。それへ絶句を題する者あり、いわく、〈赤心国に許すは平時よりす、敵を見て躯を捐《す》ててさらに疑わず、権は忌み皐は庸にして皆遁走し、同時に難に死すは只青獅のみ〉と。いかにも感慨無量で折角飲んだ酒も醒《さ》めて来るが、暫くするとまた飲みたくなりゃこそ酒屋が渡世が出来る理窟故ますます感心する。晋の司馬休、敵に殺さるべきを一向気付かず、その
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