。それより他邦に之《ゆ》きて一老人の養子となる。この養子|唾《つばき》はくごとに金を吐く、老人その金を国王に呈し、王女を養子に妻《めあわ》さんと願う。王ともかく本人をとて召し見ると、かの男王の前で金を吐く、王女馬の腹帯もて彼を縛り塩水を呑ませ鞭《むち》うつと玉を吐くを、王女拾い嚥みおわる。男は老人方に還り、驢の鞍と※[#「革+巴」、344−9]《はなかわ》を造り往きて白樹下に坐す。彼貧なりし時この樹下に眠り、夢に不思議な呪言を感得しいた。かくと知らぬ王女は玉を嚥んで懐妊し、処女二十人伴れてこの樹下へ遊びに来り、かの男呪を唱えて王女を驢に化し、鞍と※[#「革+巴」、344−11]を付けて一月間|騎《の》り行《ある》くと、驢疲れて進む能わず。因って徒歩して一都城に到り、僧となる。跡に残った驢は※[#「戀」の「心」に代えて「子」、第4水準2−5−91]生《ふたご》の男児を生み、その子孫皆|※[#「戀」の「心」に代えて「子」、第4水準2−5−91]《ふたご》で金銀茶布を有し、毎《いつ》も富み、その後胤殖えて支那人となったと。かかる話は蒙古等の民が甚《いた》く鮓答《さとう》を尊ぶから生じたであろう。鮓答は胡語ジャダーの音訳で、今日もアルタイ地方に鮓答師《ヤダチ》てふ術士あり。能くこの石を用いて天気を制す。この石不断風強く吹く狭き山谷にあり。人能く一切の所有物を棄て始めて手に入れ得、故にこの石を使う者は孤寒素貧かつ無妻という(一九一四年版チャプリカの『西伯利原住人《アボリジナル・サイベリア》』二〇〇頁)。突厥《トルキ》や蒙古の軍にしばしば鮓答師《ヤダチ》が顕用された例は、ユールの『マルコ・ポロの書』一版一巻六一章に出《い》づ。胡元朝の遺民|陶宗儀《とうそうぎ》の『輟耕録』四に、往々蒙古人雨を祷《いの》るを見るに、支那の方士が旗剣符訣等を用うると異なり、ただ石子数枚を浄水に浸し呪を持《も》て石子を淘《ゆり》玩《まわ》すと、やや久しくして雨ふる、その石を鮓答といい、諸獣の腹にあれど、牛馬に生ずるのが最も妙だと見ゆ。日本で馬糞石など俗称し、稀に馬糞中に見出す物で予も数個持ち居る。『松屋筆記』に引ける『蓬※[#「窗/心」、第3水準1−89−54]日録』に、〈およそ兵事を達するには、急に能く風雨を致し、囲を突きて走り、けだし赭丹《しゃたん》を有《も》って身に随《つ》く、赭丹は馬腹中に産す
前へ 次へ
全106ページ中23ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
南方 熊楠 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング