ここに土を積んで虚糧《うそのかて》と為《な》し、敵を紿《あざむ》いたとあるを見て似た話と思い居る内、同書三〇六に雲南の尋甸州の西なる米花洗馬山は、往時土人拠り守るを攻めた漢兵が城内水なしと知った。土人すなわち米花《こめのこ》もて馬を洗う。漢兵さては水ありと疑うて敢えて逼《せま》らなんだと書けるを見出し、支那にも白米城の話があると確知し得た。これに似た事は、一夜中に紙を貼《は》り詰めて営の白壁の速成を粧い、敵を驚かす謀計で、秀吉公は、美濃攻めにも小田原陣にもそうした由。しかるに『岐蘇考』に天正十二年山村良勝|妻籠《つまご》に城守りした時、郷民徳川勢に通じて水の手を塞《ふさ》ぎけるに、良勝白米もて馬を洗わせ、一夜中に紙で城壁を貼りて敵を欺いたと見るは一時に妙計二つを用い中《あ》てたのだ。支那でも宋の滕元発《とうげんぱつ》、一夕に席屋二千五百間を立てた話ありて、紙を白壁と見せたに酷似す。真田信仍が天王寺口で歩兵の槍で以て伊達《だて》の騎馬で鉄砲に勝ちたるを未曾有《みぞう》の事と持て囃すが、似た事もあって、南チリへ侵入したスペイン最上の将士を撃退して、二百年間独立を全うしたアウカインジアンは、同じく短兵もて西人の騎馬鉄砲に克《か》ちしを敵も歌に作って称讃した。これら似た話があるから、皆嘘また一つの他は嘘というように説く人もあるが、食い逃げの妙計、娼妓の手管、銀行員の遣《つか》い込みから、勲八の手柄談、何度新紙で読んでも大抵似た事ばかりで、例の多いがかえってその事実たるを証明する。
 支那の馬譚で最も名高きは、『淮南子』に出た人間万事かくの通りてふ塞翁《さいおう》の馬物語であろう。これは支那特有と見えて、インドを初め諸他の国々に同似の譚あるを聞かぬ。また前年高木敏雄君から次の話が日本のほかにもありやと尋ねられ、四年間調べたが似たものもないようだから多分本邦特有でがなあろう。天文中書いたてふ『奇異雑談』に出た話で大略は、一婦人従者と旅するに駄賃馬《だちんうま》に乗る。馬の口附《くちつき》来る事遅きを詰《なじ》れば馬に任せて往かれよという故、馬の往くままに進行すると、川の面六、七間なるに大木を両《ふた》つに割って橋とす。その木の本広さ三就ばかり末は至って細し。この橋高さ一丈余、下は岩石多く聳《そび》えて流水深く、徒《かち》で渡るも眩《めま》うべし。馬この橋上を進むこと一間余にして
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