去ったとあるを、那智山中読んで一月|経《へ》ぬ内に、自室の前の小流が春雨で水増し矢のごとく走る。流れのこっちの縁に生えた山葵《わさび》の芽を一疋の姫蟹が摘み持ち、注意して流れの底を渡りあっちの岸へ上り終えたところを、例の礫を飛ばして強く中てたので半死となり遁《のが》れ得ず、爾時《そのとき》岩間より他の姫蟹一疋出で来り、件《くだん》の負傷蟹を両手で挟《はさ》み運び行く。この蟹走らず歩行遅緩なれば、予ク公の言の虚実を試《ため》すはこれに限ると思い、抜き足で近より見れば、負傷蟹と腹を対《むか》え近づけ両手でその左右の脇を抱き、親切らしく擁《かか》え上げて、徐《そぞ》ろ歩む友愛の様子にアッと感じ入り、人を以て蟹に及《し》かざるべけんやと、独り合点これを久しゅうせし内、かの親切な蟹の歩み余りに遅く、時々立ち留まりもするを訝《いぶか》り熟視すると何の事だ、半死の蟹の傷口に自分の口を接《あ》て、啖《く》いながら巣へ運ぶのであった。これを見て予は書物はむやみに信ぜられぬもの、活動の観察はむつかしい事と了《さと》った次第である。
 蛇が他の物に化け、他の物が蛇になる話はかくのごとく数え切れぬほど多い。ま
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