を弄《もてあそ》ぶに暇なく、集めおわりてヘイさようならで慌《あわ》て去るものだ。強盗に逢ったら僕の名を言いたまえ、毎度逢って善い顧客だから麁略《そりゃく》にすまい、貴下のような文なしには、少々置いて行くかも知れぬと教えくれたが、まだ一度も逢わぬから、折角の妙案も実試せぬ。全体予の事を、人々が女に眉毛を読まれやすいと言うを、いかにも眉毛が鮮かなと讃めてくれると思うたが、拙妻聞いて更に懌《よろこ》ばぬから、奇妙と惟《おも》いいた。ところが『郷土研究』四の四三三頁に、林魁一君が、美濃の俗伝を報じた内に、眉毛に唾《つば》を塗ると毛が付き合うて、狐その数を読む能わず、したがって魅《ばか》す事がならぬとあるを読んで大いに解り、〈人書を読まざればそれなお夜行のごとし〉と嘆じた。マアこんな訳故、新島の一条も、もと目籠を以て邪視を避くる風が、エジプト、インド、東京《トンキン》、イタリア等同様、日本にもありしが、新島ごとき辺土に永く留まった。そこへ代官暗殺されその幽霊の来襲を惧《おそ》るる事甚だしくなりて、今更盛んに目籠を以てこれを禦ぎしより、ついに専ら代官殺しが、日忌の夜笊を出す唯一つの起りのよう、訛伝《かでん》したのであろう。
邪視は、人種学民族学、また宗教学上の大問題で、エルウォーシー等の著述もあり。本邦これに関する事どもは、明治四十二年五月の『東京人類学会雑誌』と、英京の『ネーチュール』に拙文を出したから、御覧を願うとして、改めて蛇と邪視の関係を述べんに、前述のごとく蛇の画もて、鬼や妖巫の邪視を禦ぎ、大効あると同時に、蛇自身の眼にも、強い邪視力があると信ずる民多し。いわゆる蛇の魅力(ファッシネーション)だ。
蛇の魅力
『塵塚《ちりづか》物語』は、天文二十一年作という、その内にいわく「ある人の曰く、およそ山中広野を過ぐるに、昼夜を分たず心得あるべし、人気|罕《まれ》なる所で、天狗魔魅の類、あるいは蝮蛇を見付けたらば、逃げ隠るる時、必ず目を見合すべからず。怖ろしき物を見れば、いかなる猛《たけ》き人も、頭髪立て足に力なく振い出《い》づ。これ一心顛倒するに因ってかかる事あり。この時眼を見合すれば、ことごとくかの物に気を奪われて、即時に死するものなり。ほかの物は見るとも、構えて眼ばかりは窺《うかが》うべからず。これ秘蔵の事なり。たとえば暑き頃、天に向いて日輪を見る事暫く間あらば、たちまち昏盲として目見えず。これ太陽の光明|熾《さかん》なるが故に云々。万人に降臨して、平等に臨みたもう日天さえかくのごとし、いわんや魔魅|障礙《しょうげ》の物をや、毫髪《ごうはつ》なりとも便を得て、その物に化して真気を奪わんと窺う時、眼を見るべからずとぞ」。曖昧な文だが、日本にも邪視を怖るる人あり、蛇に邪視ありと信じた証に立つ。この論に、日の光が人の眼を眩ますを、邪視に比したは、古エジプトで諸神の眼力極めて強く、能く諸物を滅すとせるに似て面白い。たとえば、古エジプトの神ホルスは、日を右眼とし、月を左眼とし、その眼力能く神敵たる巨蛇アペプを剄《くびき》る。また神怒れば、その眼力叢林を剿蕩《そうとう》す。またラー神の眼、諸魔を平らぐるに足るなど信じた。『薩婆多論』に、むしろ身分を以て毒蛇口中に入るも、女人を犯さざれ、蛇に三事ありて人を害す、見て人を害すると、触れて害すると、噛んで害するとあり。蛇と等しく女人にも三害あり。もし女人を見れば、心欲想を発し人の善法を滅す、もし女人の身に触るれば、身中罪を犯し、人の善法を滅す。もし共に交会せば、身重罪を犯し人の善法を滅す。また七害あり。一には、もし毒蛇に害せらるればこの一身を害すれど、女人に害せらるれば、無数身を害す云々と、長たらしく女の害、遥かに蛇に勝《まさ》れる由数え立て居る。ここに蛇見て人を害すとあるは、インドでも蛇は邪視を行うとしたのだ。ただし女人には、邪視や見毒のほかに、愛眼というやつがあって、その効果もっとも怖ろしい。本町二丁目の糸屋の娘、姉が二十一、妹が二十、諸国諸大名は刃《やいば》で殺す、この女二人は、眼元で殺すと唄うこれなり。その糸屋はどうなったか、博文館は同町故、取り調べて史蹟保存とするがよい。要するに女人は、毒蛇よりも忌むべしなどいうは、今日に適せぬ愚論で、中古の天主徒が洗浴を罪悪として、某尊者は、幾年|浴《ふろ》に入らなんだなど特書したり、今日の耶蘇《ヤソ》徒が禁酒とか、公娼廃止とか喋舌《しゃべ》ると同程度の変痴気説じゃ。一六四四年、オランダで出版された『ヒポリツス・レジヴィヴス』てふ詩は、手苛《てひど》く婦女を攻撃したものだが、発端に作者自ら理論上女ほど厭な者はない、しかし実行上好きで好きで神と仰ぐと断わって居るは、最《いと》粋な人だ。惜しい事にはその本名が伝わらぬ。上に引いた『薩婆多論』の述
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