妻思念至って深し、荏苒《じんぜん》疾くなり、たちまち昼夢国忠と○、因って孕むあり、後に男を生み朏《ひ》と名づく、国忠使帰るに至るにおよび、その妻|具《つぶさ》に夢中の事を述ぶ、国忠曰く、これけだし夫婦相念い情感の至る所、時人|譏誚《きしょう》せざるなきなり〉。国忠の言を案ずると、フィリポス王同然自分もちょうどその時異夢を見たのだろう。
仏典に名高い賢相|大薬《マハウシャダ》の妻|毘舎※[#「にんべん+去」、第3水準1−14−15]《ヴィサクハ》女、美貌智慧|併《ならび》に無双たり。時に北方より五百商人その国へ馬売りに来り、都に名高き五百妓を招きスチャラカ騒ぎをやらかしけるに、商主一人少しも色に迷わず、夥中《かちゅう》最も第一の美妓しきりに誘えど、〈我邪念なし、往返徒労なり〉と嘯《うそぶ》いたとは、南方先生の前身でもあったものか、自宅によほどよいのがあったと見える。かの妓|躍気《やっき》で、君は今堅い事のみ言うが、おのれ鎔《と》かさずに置くべきか、していよいよ妾に堕された日は、何をくれるかと問うと、その場合には五馬を上げよう。もしまた当地滞留中いささかも行いを濫《みだ》さなんだら、和女《そなた》われに五百金銭を持って来なと賭《かけ》をした。それからちゅうものは前に倍して繁《しげ》く来り媚び諂《へつら》うに付けて、商主ますます心を守って傾く事なし。諸商人かの妓を気の毒がり、一日商主に城中第一の名代女の情に逆らうは不穏当と忠告すると、商主誠に思召《おぼしめし》ありがたきも昨夜夢に交通を遂げた。この上何ぞ親しく見《まみ》ゆるを要せんと語る。かの妓伝え聞いて、人足多く率い来て商主に対《むか》い、汝昨夜われとともに非行したから五馬を渡せと敦圉《いきま》き、商主は夢に見た事が汝に何の利害もあるものかと大悶着となって訴え出で、判官苦心すれど暮に至るも決せず、明日更に審査するとして大薬《マハウシャダ》その家に還ると、毘女何故|晩《おそ》かったかと問うと、委細を語り何とか決断のしようがないかと尋ねた。毘女|其式《それしき》の裁判は朝飯前の仕事と答えて夫に教え、大薬妻の教えのままに翌日商主の五馬を牽《ひ》き来て池辺の岩上に立たせ、水に映った五馬の影を将《ひき》去れ、〈もし影馬実に持つべき者なしと言わば、夢中行欲の事もまた同然なり〉、と言い渡したので、国王始め訴訟の当人まで嗟賞《さしょう》やまなんだという。
古ギリシアの名妓ラミアは、己の子ほど若い(デメトリオス)王を夢中にしたほど多智聡敏じゃった。その頃エジプトの一青年、美娼トニスを思い煩うたが、トが要する大金を払い得ず空しく悶《もだ》えいると、一霄《いっしょう》夢にその事を果して心静まる。ト聞いて、只《ただ》には置かず揚代《あげだい》請求の訴を法廷へ持ち出すと、ボッコリス王、ともかくもその男にトが欲するだけの金を鉢に数え入れ、トの眼前で振り廻さしめ、十分その金を見て娯《たの》しめよとトに命じた。ラミア評して、この裁判正しからず、子細は金見たばかりで女の望みは満足せねど、夢見たばかりで男の願いは叶《かの》うたでないかと言ったとは、この方が道理に合ったようであり、読者諸士滅多に夢の話しもなりませんぞ。このラミアの説のごとく、行欲の夢はその印相を留むるの深さ他の夢どもに異なり、時として実際その事ありしよう覚えるすら例多ければ、さてこそフィリポス王ごとき偉人もその后の言を疑わなんだのだ。後年アレキサンダー大王遠征の途次、アララット山に神智広大能く未来を言い中《あ》つる大仙ありと聞き、自ら訪れて「汝に希有《けう》の神智ありと聞くが、どんな死様《しにざま》で終るか話して見よ」と問うと、「われは汝に殺されるべし」と答えたので、しからばその通りと王鎗を以て彼を貫く、大仙ここにおいて、汝実にわが子だとて、昔蛇に化けて王の母を娠ませた子細を語って死んだそうじゃ。晋の郭景純が命、今日日中に尽くと、王敦《おうとん》に告げて殺されたと似た事だ。『日本紀』に、大物主神《おおものぬしのかみ》顔を隠して夜のみ倭迹々姫命《やまとととびめのみこと》に通い、命その本形を示せと請うと小蛇となり、姫驚き叫びしを不快で人形に復《かえ》り、愛想|竭《づ》かしを述べて御諸山《みもろやま》に登り去り、姫悔いて箸《はし》で陰《ほと》を撞《つ》いて薨《こう》じ、その墓を箸墓というと載す。
未聞の代には鬼市《きし》として顔を隠し、また全く形を見せずに貿易する事多し(一九〇四年の『随筆問答雑誌《ノーツ・エンド・キーリス》』十輯一巻二〇六頁に出た拙文「鬼市について」)。これ主として外人を斎忌《タブー》したからで、それと等しく今日までも他部族の女に通うに、女のほかに知らさず。甚だしきは女にすら自分の何人たるを明かさぬ例がある。さて昔は日本にも族霊《トテ
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