ど早く行われいたと、この李善の註が立証する。また魚瞰について想い出すは、予の幼時、飯のサイにまずい物を出さるると母を睨んだ。その都度母が言ったは、カレイが人間だった時、毎々《つねづね》不服で親を睨んだ、その罰で魚に転生して後《のち》までも、眼が面の一側にかたより居ると。さればカレイも邪視する魚と嫌うた物か[延享二年大阪竹本座初演、千柳《せんりゅう》、松洛《しょうらく》、小出雲《こいずも》合作『夏祭浪花鑑《なつまつりなにわかがみ》』義平治殺しの場に、三河屋義平治その婿団七九郎兵衛を罵《ののし》る詞《ことば》に、おのれは親を睨《ね》めおるか、親を睨むと平目になるぞよ、とある。ヒラメもカレイも眼が頭の一傍にかたよりおるは皆様御承知]。『後水尾院《ごみずのおいん》年中行事』上に、一参らざる物は王余魚、云々。またカレイ、目の一所によりて附し、その体異様なれば参らずなどいう女房などのあれども、それも各の姿なり、その類の中に類いず、こと様にあらばこそと見ゆ。(二月二十八日)
 追加 前項に、今より千二百七十年ほどの昔、唐の顕慶年間、李善が書いた『文選』の註に、鶏好邪視とあるを、邪視なる語のもっとも早くみえた一例として置いた。その後また捜索すると、それより少なくとも五百二十年古く、後漢の張平子の『西京賦』に、〈ここにおいて鳥獣、目を殫《つく》し覩窮《みきわ》む、遷延し邪視す、乎長揚の宮に集まる〉。注に『説文』曰く、〈睨は斜視なり、劉長曰く、邪睨邪視なり〉、同上、麗服|※[#「風にょう+昜」、第3水準1−94−7]菁《ようせい》、※[#「目+名」、313−14]藐流眄《べいびょうりゅうべん》、一顧|傾城《けいせい》とある*を、山岡明阿の『類聚名物考』一七六に引いて、邪視をナガシメと訓じあるを見あてた。この邪睨は邪視と同じくイヴル・アイを意味し、支那でイヴル・アイをいい表わした最も古い語例の一つだろう。ナガシメは紀州田辺近村の麦打ち唄に「色けないのに色目を使う」というイロメで、流眄によく合えど、邪睨邪視には合わない。また同項に引いたマレー群島で海中の怪物が鶏を怖るるてふ話に近きは、琉球にもあって、佐喜真《さきま》君の『南嶋説話』二九頁に出《い》づ。
[#地から2字上げ](昭和六年四月、『民俗学』三ノ四)
 * 註に※[#「目+名」、314−5]は眉睫《びしょう》の間、藐、好《よ》き視容
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