、鶏廉狼貪、魚瞰鶏睨、魚不瞑、鶏邪視とある。この文句は何から採っただろうと、『淵鑑類函』四二五、鶏の条を探ると、〈王褒《おうほう》曰く、魚瞰鶏睨、李善|以為《おも》えらく魚目|瞑《つむ》らず、鶏好く邪視す〉とある。鶏はよく恐ろしい眼付きで睨むをいうので、この田辺辺で古く天狗が時に白鶏に化けるなどいい忌む人があったは、多少その邪視を怖れたからだろう。白いのに限らず鶏をすべて嫌うた村もあったときく。『拾遺記』一、※[#「禾+砥のつくり」、312−2]支の国より堯に献じた重明の鳥は、〈双睛目あり、状《かたち》鶏のごとし、能く猛獣虎狼を搏逐す、妖災群悪をして、害為す能わざらしむ、(中略)今人毎歳元日、あるいは木を刻み金を鋳す、あるいは図を画きて鶏|※[#「片+(戸の旧字+甫)」、第3水準1−87−69]上《ゆうじょう》に為す、これその遺像なり〉。その他支那で鶏を以て凶邪を避けた諸例は、載せて Willoughby−Mcade,‘Chinese Ghouls and Goblins’. 1928. pp. 155−157. に出《い》づ。またマレー群島中、アムボイナやマカッサーの人はその辺の海に千脚ある大怪物すみ、その一脚を懸けられてもたちまち船が覆《くつが》える、がこの怪物鶏を怖れるからとて、船には必ず鶏を乗せて出発するという(Stavorinus, “Account of Celebes, Amboyna, etc.”, in Pinkerton,‘Voyages and Travels’, vol. xi. p. 262, London, 1812)。これら種々理由あるべきも、その一つは鶏の邪視もて他の怪凶をば制したのであろう。王褒は有名な孝子かつ学者で、『晋書』八八にその伝あり。李善は唐の顕慶中、『文選』を註した(『四庫全書総目』一八六)。熊楠十歳の頃、『文選』を暗誦して神童と称せられたが、近頃年来多くの女の恨みで耄碌《もうろく》し、件《くだん》の魚瞰鶏睨てふ王褒の句が、『文選』のどの篇にあるかを臆《おも》い出し得ない。が何に致せ李善がこれに註して、魚瞰とは死んでも眼を閉じぬ事、鶏睨とはよく邪視する事を解いたのだ。前項に、邪視なる語は、唐の貞元中に訳された『普賢行願品』に出でおり、今(昭和四年)より千百三十年ほどの昔既に支那にあったと述べたれど、それよりも約百四十年ほ
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