上帝これを救わんとて、蛇に黠智《かっち》を授けたから、『聖書』に蛇のごとく慧《さと》しといったのじゃ。ここにおいて蛇来ってノアに、われ穴を塞いで水を止めたら何をくれるかと問うた。さいう爾《なんじ》は何を欲するかと問い返すと、蛇洪水|息《や》んで後、われと子孫の餌として毎日一人ずつくれと答う。途轍《とてつ》もない事と思うても背に替えられぬ腹を据えて、いかにも日に一人ずつ遣ろうと誓うたので、蛇尾の尖《さき》を以て穴を塞ぎ水を止め天魔敗走した。洪水息んでノア牲《いけにえ》を献《たてまつ》って上帝に謝恩し、一同大いに悦ぶ最中に蛇来って約束通り人を求めて食わんという。ノアこの人少なに毎日一人ずつ取られては、たちまち人種が尽きると怒って、蛇を火に投じ悪臭大いに起ちて上帝を不快ならしめた。由って上帝風を起し蛇の尸灰を世界中へ吹き散らし、蚤その灰より生じて世界中の人の血を吸う。その分量を合計すればあたかも毎日一人ずつ食うに等しいから、ノアの契約は永く今までも履行され居る訳になると。
それから三河で伝うるは、蝮《まむし》は魔虫で、柳かウツギの木で打ち殺すと立ちどころに何千匹となく現われ来ると(早川孝太郎氏説)。盛夏深山の渓水に、よく蝮が来て居る。それを打ち殺して、暫くして往き見ると、多分他の蝮が来て居るは予しばしば見た。紀州安堵峯辺でいう、栗鼠《りす》は獣中の山伏で魔法を知ると、これややもすれば樹枝に坐して手を拱《きょう》し礼拝の態を為《な》すに基づく。さて杣人《そまびと》一日山に入りて儲けなく、ちょっと入りて大儲けする事もあればこれも魔物なり。杣人山中で栗鼠に会うに、杣木片《そまこっぱ》すなわち斧で木を伐った切屑また松毬《まつかさ》を投げ付けると、魔物同士の衝突だからサア事だ、その辺一面栗鼠だらけになると。また日高郡丹生川大字大谷に、蚯蚓《みみず》小屋ちゅうは昔ここの杣小屋へ大蚯蚓一疋現われしを火に投ずると、暫くの間に満室蚯蚓で満たされその建物倒れそう故逃げ帰った、その小屋|址《あと》という。随分|信《うけ》られぬ話のようだが何か基づく所があるらしい。
明治十八年、予神田錦町で鈴木万次郎氏の舅《しゅうと》の家に下宿し、ややもすれば学校へ行かずに酒を飲み為す事なき余り、庭上に多き癩蝦蟆《いぼがえる》に礫《こいし》を飛ばして打ち殺すごとに、他の癩蝦蟆肩を聳《そび》やかし、憤然今死ん
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