その鏡の形に瑕生じたと。また『淡海録』曰く、昔|赤染衛門《あかぞめえもん》、若衆に化けてこの鐘を見に来り、鐘を撫《な》ぜた手が取り著《つ》いて離れず、強く引き離すと手の形に鐘取れた痕《あと》なり、また染殿后《そめどののきさき》ともいうと。『誌略』の著者は、享保頃の人だが、自ら睹《み》た所を記していわく、この鐘に大なる※[#「比+皮」、127−5]裂《ひびわれ》あり、十年ばかりも以前に、その裂目へ扇子入りたり、その後ようやくして、今は毫毛《ごうもう》も入らず、愈《い》えて※[#「比+皮」、127−7]裂なし、破鐘を護《まも》る野僧の言わく、小蛇来りて、夜ごとにこの瑕を舐むる故に愈えたりと、また笑うべし、赤銅の性、年経てその瑕愈え合う物なり、竜宮の小蛇、鐘を舐《ねぶ》りて瑕を愈やす妙あらば、如何ぞ瑕付かざるように謀《はか》らざるや、年経て赤銅の破目愈え合うという事、臣《それがし》冶工に聞けりと。予今年七十六歳の知人より聞くは、若い時三井寺で件《くだん》の鐘を見たるに※[#「比+皮」、127−11]裂筋あり、往昔弁慶、力試しにこれを提《さ》げて谷へ擲《な》げ下ろすと二つに裂けた、谷に下り推《お》し合せ長刀《なぎなた》で担《にの》うて上り、堂辺へ置いたまま現在した、またその鐘の面に柄附《えつき》の鐘様の窪《くぼ》みあり、竜宮の乙姫《おとひめ》が鏡にせんとて、ここを採り去ったという、由来書板行して、寺で売りいたと。
 何がな金にせんと目論み、一つの鐘に二つまで瑕の由来を作った売僧輩《まいすはい》の所行《しわざ》微笑の至りだが、欧州の耶蘇《ヤソ》寺にも、愚昧な善男女を宛《あ》て込んで、何とも沙汰の限りな聖蹟霊宝を、捏造《ねつぞう》保在した事無数だ。試みに上に引いたコラン・ド・プランチーの『評彙』から数例を採らんに、ローマにキリストの臍帯《さいたい》および陰前皮《まえのかわ》と、キリストがカタリン女尊者に忍び通うた窓附の一室、またアレキシス尊者登天の梯《はしご》あり。去々年独軍に蹂躙されたランスの大寺に、石上に印せるキリストの尻蹟あり、カタンにアガテ女尊者の両乳房、パリ等にキリストの襁褓《むつき》、ヴァンドームにキリストの涙、これは仏国革命の際、実検して南京玉と判《わか》った。またローマに、日本聖教将来の開山ハビエロの片腕、ロヨラ尊者の尻、ブロア附近にキリストの父が木を伐る時出した声、カタロンとオーヴァーンは、聖母マリアの経水|拭《ふ》いた布切《ぬのぎれ》、オーグスブールとトレーヴにベルテレミ尊者の男根、それからグズール女尊者の体はブルッセルに、女根と腿《もも》はオーグスブールに鎮坐して、各々随喜恭礼されたなど、こんな椿事《ちんじ》は日本にまたあるかいな。
 されば弁慶力試しや、男装した赤染衛門の手印などは、耶蘇坊主の猥雑《わいざつ》極まる詐欺に比べて遥かに罪が軽い、それから『川角太閤記《かわすみたいこうき》』四に、文禄元辰二月時分より三井寺の鐘鳴りやみ、妙なる義と天下に取り沙汰の事と見ゆ、これも何か坊主どもの騙術《まやかし》だろうが、一体この寺の鐘性弱いのか、またさなくとも、度々《たびたび》の兵火でしばしば※[#「比+皮」、128−12]裂《ひびわれ》たのを、その都度よい加減に繕うたが、ついに鳴りやんだので、その※[#「比+皮」、128−13]裂や欠瑕を幸い、種々伝説を造って凡衆を誑《たぶら》かしたのだろう、かようの次第で三井の鐘が大当りと来たので、これに倣《なろ》うて他にも類似の伝説附の鐘が出て来たは、あたかも江戸にも播州《ばんしゅう》にも和歌山にも皿屋敷があったり、真言宗が拡まった国には必ず弘法大師|三鈷《さんこ》の松類似の話があったり(高野のほかに、『会津風土記』に載った、磐梯山恵日寺の弘法の三鈷松、『江海風帆草』に見ゆる筑前立花山伝教の独鈷《とっこ》松、チベットにもラッサの北十里、〈色拉寺中一|降魔杵《ごうましょ》を置く、番民呼んで多爾済《ドルジ》と為《な》す、大西天より飛来し、その寺|堪布《カンボ》これを珍《め》づ、番人必ず歳に一朝観す〉と『衛蔵図識』に出《い》づ)、殊に笑うべきは、天主教のアキレスとネレウス二尊者の頭顱《されこうべ》各五箇ずつ保存恭拝され、欧州諸寺に聖母《マドンナ》の乳汁《ちち》、まるで聖母は乳牛だったかと思わるるほど行き渡って奉祀され居るがごとし。
 すなわち『近江輿地誌略』六一、蒲生《がもう》郡川守村鐘が嶽の竜王寺の縁起を引きたるに、宝亀《ほうき》八年の頃、この村に小野時兼なる美男あり、ある日一人の美女たちまち来り、夫婦たる事三年ののち女いわく、われは平木の沢の主なり、前世の宿因に依ってこの諧《かた》らいを為《な》せり、これを形見にせよとて、玉の箱を残して去った、時兼恋情に堪えず、平木の沢に行って歎くと、か
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