は伊勢国に候《そうら》わず、件《くだん》の蛇海より来り寄す云々と見ゆ。これすなわち海蛇で鰻様に横|扁《ひらた》き尾を具え海中に限って住むがインド洋太平洋とその近海に限る、およそ五十種あり(第六図)。知人英学士会員ブーランゼー方で見たはインド洋産七、八フィートあった、熊野で時々取るを予自ら飼い試みるにブーランゼー始め西人の説に誤謬多し、そのうち一論を出し吹き飛ばしてくれよう。『唐大和尚東征伝』や蘭人リンスコテンの『東印度紀行《ヴォヤージュ・エス・アンドリアンタル》』(一六三八年アムステルダム版、一二二頁)を見ると、昔はアジアの南海諸処に鑑真のいわゆる蛇海すなわち海蛇夥しく群れ居る所があったらしい、『アラビヤ夜譚』のブルキア漂流記に海島竜女王|住処《すみか》を蛇多く守るといい、『賢愚因縁経』に大施が竜宮に趣く海上無数の毒蛇を見たとあり、『正法念処経』に〈熱水海毒蛇多し、毒蛇気の故に海水をして熱せしめ一衆生あるなし、蛇毒を以《もちい》る故に衆生皆死す〉と見ゆる、海蛇はいずれも毒牙を持つからの言《こと》だ、これら実在のものと別に西洋には古来海中に絶大の蛇ありと信ずる者多く、近年も諸大洋で見たと報ずる人少なからず、古インドに勇士ケレサスバ海蛇を島と心得その脊《せ》で火を焼く、熱さに驚き蛇動いて勇士を顛倒したと言い、十六世紀にオラウスが記したスウェーデンの海蛇は長《たけ》二百フィート周二十フィート、牛豕羊を食いまた檣《ほばしら》のごとく海上に起《た》ちて船客を捉え去ったといい、明治九年頃チリ辺の洋中で小鯨二疋一度に捲き込んだ由その頃の新聞で見た。『エンサイクロペジア・ブリタンニカ』十一版二十四巻にかかる大海蛇譚の原因は海豚《いるか》や海鳥や鮫や海狗や海藻が長く続いて順次起伏して浮き游《およ》ぐを見誤ったか、また大きな細長い魚や大烏賊を誤り観《み》たか、過去世に盛えた大爬虫プレシオサウルスの残党が今も遠洋に潜み居るだろうと論じ居る。『甲子夜話』二十六に年一、二度佐渡より越後へ鹿が渡海するに先游ぐもの頸《くび》と脊のみ見え、後なるはその頷を前の鹿の尾の上に擡《もた》げて游ぎ数十続く、遠望には大竜海を游ぐのごとく見ゆとある、今も熊野の漁夫海上に何故と知らず巨※[#「魚+賁」、第4水準2−93−84]《おおえび》などの魚群無数続き游ぎ、船坐るかと怖れ遁《に》げ帰る事ありとか、またホーズと呼ぶ長大の動物尾も頭も知れず連日游ぎ過ぐるに際限を見ず、因って見込みの付かぬをホーズもない事というと聞く、かかる物実際存否の論は措《お》いてとにかく西洋に大海蛇の譚あるようにインドや支那で洋海に大竜棲むとし海底に竜宮ありと信ずるに及んだのだ、また俗に竜宮と呼ぶ蜃気楼も蜃の所為とした、蜃は蛇のようで大きく腰以下の鱗ことごとく逆に生えるとも、※[#「虫+璃のつくり」、第3水準1−91−62]竜《あまりょう》に似て耳角あり背鬣紅色とも、蛟に似て足なしともありて一定せず、蜃気楼は海にも陸にも現ずる故|最寄《もより》最寄で見た変な動物をその興行主が伝えたので、蜃が気を吐いて楼台等を空中に顕わすを見て飛び疲れた鳥が息《やす》みに来るを吸い落して食うというたのだ(『類函』四三八)。また月令季秋雀大水に入って蛤《はまぐり》となり孟冬《もうとう》雉大水に入って蜃となる、この蜃は蛤の大きなものだ、欧州中古|石※[#「虫+劫」、第4水準2−87−51]《かめのて》が鳧《かも》になると信じわが邦で千鳥が鳥貝や玉※[#「王+兆」、第4水準2−80−73]《たいらぎ》に化すと言うごとく蛤類の肉が鳥形にやや似居るから生じた迷説だが、邦俗専ら蜃をこの第二義に解し蛤が夢を見るような画を蜃気楼すなわち竜宮と見るが普通だ。
[#「第6図」のキャプション付きの図(fig1916_06.png)入る]
インド、アラビア、東南欧、ペルシア等に竜蛇が伏蔵を守る話すこぶる多い、伏蔵とは英語でヒッズン・トレジュァー、地下に匿《かく》しある財宝で、わが邦の発掘物としては曲玉や銅剣位が関の山だが、あっちのは金銀宝玉金剛石その他|最《いと》高価の珍品が夥しく埋まれあるから、これを掘り中《あ》てた者が驟《にわ》かに富んで発狂するさえ少なからず、伏蔵探索専門の人もこれを見中てる方術秘伝も多い。『起世因本経』二に転輪聖王《てんりんじょうおう》世に出《い》づれば主蔵臣宝出でてこれに仕う、この者天眼を得地中を洞《とお》し見て有王無王主一切の伏蔵を識《し》るとあるから、よほど古くより梵土で伏蔵を掘って国庫を満たす事が行われたので、『大乗大悲分陀利経』には〈諸大竜王伏蔵を開示す、伏蔵現ずる故、世に珍宝|饒《おお》し〉という。前文に述べた通り伏蔵ある地窖《あなぐら》や廃墟や沼沢には蛇や蜥蜴類が多く住み、甚だしきは※[#「魚+王の中の
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