霊怪な談も聞かぬが、外国殊に熱地その類多い処では蛇に負けぬほどこれに関する迷信口碑が多い。欧州でも、露国の民はキリスト教に化する前、家ごと一隅に蛇を飼い、日々食を与えたが(一六五八年版ツヴェ『莫士科坤輿誌《コスモグラフィー・モスコヴィト》』八六頁)、そのサモギチア地方民は十六世紀にもギヴォイテてふ蜥蜴を家神とし食を供えた(英訳ハーバースタイン『露国記《ノーツ・アッポン・ラッシア》』二巻九九頁)。
『抱朴子』に、〈蜥蜴をいいて神竜と為《な》すは、但《ただ》神竜を識《し》らざるのみならず、また蜥蜴を識らざるなり〉、晋代蜥蜴を神竜とし尊んだ者ありしを知るべし。『漢書』に漢武|守宮《やもり》を盆で匿し、東方朔《とうぼうさく》に射《あ》てしめると、竜にしては角なく蛇にしては足あり、守宮か蜥蜴だろうと中《あ》てたので、帛《きぬ》十疋を賜うたとある。蜥蜴を竜に似て角なきものと見立てたのだ。上に引いた通り、『周易』の易の字は蜴《とかげ》の象形といったほど故、古支那で蜥蜴を竜属として尊んだのだ。蜥蜴は墓地などに多く、動作迅速でたちまち陰顕する故、サンタル人は、睡中人の魂|出行《である》くに、蜥蜴と現ずと信ず(フレザー『金椏篇《ゴルズン・バウ》』初版一巻一二六頁)。『西湖志』に、銭武粛王の宮中夜番を勤むる老嫗が、一夜大蜥蜴燈の油を吸い竭《つ》くしたちまち消失するを見、異《あやし》んで語らずにいると、明日王曰く、われ昨夜夢に魔油を飽くまで飲んだと、嫗見しところを王に語るに王|微《すこ》しく哂《わら》うのみとあれば、支那にも同様の説があったのだ(『類函』四四九)。後インドではトッケとてわが邦の蜥蜴に名が似て、カメレオンごとく能《よ》く変色する蜥蜴、もと帝釈の宮門を守ったと伝う(ロウ氏の説、一八五〇年刊『印度群島および東亜細亜雑誌』四巻二〇三頁)。
 濠州のジェイエリエ人伝うらく、大神ムーラムーラ創世に多く小さき黒蜥蜴を作り、諸《もろもろ》の※[#「虫+支」、第4水準2−87−33]行《はう》動物の長とす。次にその足を分ちて指を作り、次に鼻それより眼口耳を作り、さて立たしむるに尾が妨げとなるから切り去ると蜥蜴立ちて行き得、かくて人類が出来たと(スミス『維克多利生蕃篇《ゼ・アボリジンス・オヴ・ヴィクトリア》』二、四二五頁)。古エジプト人は、蜥蜴を神物とし、その尸をマンミーにして保存奉祀した。西
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