、我敵を討つてたび候へと懇《ねんごろ》に語《かたら》ひけれ、秀郷一義もいはず、子細あるまじと領状して、すなはちこの男を前《さき》に立て、また勢多の方へぞ帰りける、二人共に湖水の波を分けて水中に入る事五十余町あつて、一の楼門あり、開いて内へ入るに、瑠璃《るり》の沙《いさご》厚く、玉の甃《いしだたみ》暖かにして、落花自ずから繽紛《ひんぷん》たり、朱楼紫殿玉の欄干|金《こがね》を鐺《こじり》にし銀《しろがね》を柱とせり、その壮観奇麗いまだかつて目にも見ず、耳にも聞かざりしところなり。
この怪しげなりつる男、まづ内へ入つて、須臾《しゆゆ》の間に衣冠を正しくして、秀郷を客位に請《しよう》ず、左右|侍衛官《しえのかん》前後花の粧《よそお》ひ、善尽し美尽せり、酒宴数刻に及んで、夜既に深《ふけ》ければ、敵の寄すべきほどになりぬと周章《あわて》騒ぐ、秀郷は、一生涯が間身を放たで持ちたりける、五人|張《ばり》にせき弦《づる》懸けて噛《く》ひ湿《しめ》し、三年竹の節近《ふしぢか》なるを、十五束|二伏《ふたつぶせ》に拵《こしら》へて、鏃《やじり》の中子《なかご》を筈本《はずもと》まで打ち通しにしたる矢、たゞ三筋を手挟《たばさ》みて、今や/\とぞ待ちたりける、夜半過ぐるほどに、雨風一通り過ぎて、電火の激する事|隙《ひま》なし、暫《しばら》くあつて比良《ひら》の高峯《たかね》の方より、焼松《たいまつ》二、三千がほど二行に燃えて、中に島のごとくなる物、この竜宮城を指《さ》してぞ近づきける、事の体《てい》を能々《よくよく》見るに、二行に点《とぼ》せる焼松は、皆|己《おのれ》が左右の手に点したりと見えたり、あはれこれは、百足蛇《むかで》の化けたるよと心得て、矢比《やごろ》近くなりければ、件《くだん》の五人張に十五束|三伏《みつぶせ》、忘るゝばかり引きしぼりて、眉間《みけん》の真中をぞ射たりける、その手答へ鉄を射るやうに聞えて、筈を返してぞ立たざりける、秀郷一の矢を射損じて安からず思ひければ、二の矢を番《つご》うて、一分も違《ちが》へず、わざと前の矢所《やつぼ》をぞ射たりける、この矢もまた、前のごとくに躍り返りて、これも身に立たざりけり、秀郷二つの矢をば、皆射損じつ、憑《たの》むところは矢一筋なり、如何《いかん》せんと思ひけるが、屹《きつ》と案じ出だしたる事あつて、この度射んとしける矢先に、唾を吐き
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