じ道筋を跡へ戻る事数百ヤードにしてたちまち横の方へ高跳《たかとび》して静かに匿《かく》れ居ると犬知らず前へ行ってしまう。その時兎たちまち元の道へ跳ね戻り犬と反対の方へ逃れ去る。また自分の足に最も適し、犬の足に極めて不利な地を択んで走る事妙なり(ウッド、同前)。されば米国の黒人は兎を食えばその通り狡黠敏捷になると信じ(オエン、二三〇頁)、アフリカのバンツ人の俗譚に兎動物中の最も奸智あるものたれば実際を知らざる者これを聞書《ききがき》する時スングラ(兎)を狐と誤訳した(一九〇六年ワーナー『英領中央亜非利加土人篇《ゼ・ネチヴス・オヴ・ブリチシュ・セントラル・アフリカ》』二三二頁)。露国の話に兎熊児を嗤《わら》い唾を吐き掛けたので母熊怒って追い来るを兎|旨《うま》く逃げて熊穽に陥るとあり、蒙古に満月の夜兎、羊と伴《つ》れて旅立つを狼襲うて羊を啖わんとす、その時兎偽ってわれは帝釈《たいしゃく》の使で狼千疋の皮を取りに来たと呼ばわり狼怖れて逃げた物語あり、わが邦の「かちかち山」の話も兎の智計能く狸を滅ぼした事を述べ、『五雑俎』九に〈狡兎は鷹来り撲《う》つに遇えばすなわち仰ぎ臥し足を以てその爪を擘《はく》してこれを裂く、鷹すなわち死す云々、また鷹石に遇えばすなわち撲つあたわず、兎これを見てすなわち巌石の傍に依って旋転す、鷹これを如何《いかん》ともするなし云々〉、『イソップ物語』に鷲に子を啖われた熟兎樹を根抜きに顛覆《てんぷく》し鷲の巣中の子供を殺した話見え、インドに兎己れを食わんとする獅子を欺き井に陥るる話あり。またいわく月湖辺《つきのうみべ》に群兎住み兎の王を葬王《ヴィガヤダソタ》と号《な》づく。象群多くの兎を踏み殺せしを憤り兎王象王に月諸象を悪《にく》めりと告ぐ。象月を見んと望みければすなわちこれを湖畔に伴れ行き水に映れる月影を示す。象月に謝゜せんとて鼻を水に入るるに水掻き月影|倍多《ふえ》たり、兎象に向い汝湖水を擾《みだ》せし故月いよいよ瞋《いか》ると言い象ますます惶《おそ》れ赦《ゆるし》を乞い群象を帥《ひき》いてその地を去る、爾後《じご》兎群静かに湖畔に住んで永く象害を免ると(一八七二年版グベルナチス『動物譚原《ゾーロジカル・ミソロジー》』巻二章八)。かく狡智に富む故兎を神とした人民少なからず。すでに『古事記』に兎神を載せ、今も熊野で兎を巫伴《みことも》と呼ぶは、狼を山の
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