に緑樹《りょくじゅ》影沈んで魚樹に登る景色あり月海上に浮かんでは兎も波を走るか面白の島の景色やとあるは『南畝莠言《なんぽいうげん》』上に拠ると建長寺僧自休が竹生島に題せる詩の五、六の句〈樹影沈んで魚樹に上り、清波月落ちて兎流れに奔《はし》る〉とあるを作り替えたのだ。予が見たところ兎を海へ追い込んだり急流に投げ込んだりすると直ぐに死んだので右の句はただ文飾語勢を主とした虚構と思っていたが、仏経に声聞《しょうもん》を兎川を渡る時身全く水に泛《うか》ぶに比し、ウッドの『博物画譜《イラストレーテット・ナチュラル・ヒストリー》』巻一に兎敵を避くるに智巧を極め、犬に嗅ぎ付けらるるを避けんとて流水や大湖に躍り入り長距離を泳いで遠方ヨ上陸し、また時として犬に追究されて海に入り奔波を避けずして妙に難を免るるある由記せるを見て、件《くだん》の謡や詩の句はまるで無根でないと知った。
 上述のごとく兎は随分農作を荒らしその肉が食えるから、兎猟古くより諸国に行われた。『淵鑑類函』四三一に后※[#「※」は「羽」と「廾」を上下に組み合わせる、100−2]《こうげい》巴山に猟し大きさ驢《うさぎうま》ほどなる兎を獲た、その夜夢に冠服王者のごとき人が、※[#「※」は「羽」と「廾」を上下に組み合わせる、100−3]にいうたは我は※扶君[#「※」は「宛+鳥」、100−3]《えんふくん》としてこの地の神じゃ、汝我を辱めた罰としてまさに手を逢蒙に仮らんとすと、翌日逢蒙※[#「※」は「羽」と「廾」を上下に組み合わせる、100−4]を弑《しい》して位を奪うた。今に至ってもその辺の土人は兎を猟《と》らぬと見え、また後漢の劉昆弟子常に五百余人あり、春秋の饗射ごとに桑弧《そうこ》蒿矢《こうし》もて兎の首を射、県宰すなわち吏属を率いてこれを観《み》たとあり、遼の国俗三月三日木を刻んで兎とし朋《くみ》を分けて射た、因ってこの日を陶里樺《とうりか》(兎射)と称えたと出《い》づ。これは兎害を厭勝《まじない》のため兎を射る真似をしたのだろ。天主僧ガーピョンの一六八八|至《より》一六九八年間康熙帝の勅を奉じ西|韃靼《だったん》を巡回した紀行(アストレイ『新編紀行航記全集《ア・ニュウ・ゼネラル・コレクション・オヴ・ウオエージス・エンド・トラウェルス》』巻四、頁六七六)に帝が露人と講和のため遣わした一行がカルカ辺で兎狩した事を記して歩
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