lは信じた、またアキスは女魅ガラテアに愛されたが、円眼鬼《チクロプス》ポリフェムス嫉み甚だしく大岩で彼を圧殺し血|迸《はし》り出るをガラテアがエトナ山下のアキス川に化したという。実はこの小河が岩下より出る故作り出した話だろ(スミス『希臘羅馬人伝神誌字彙《ジクショナリ・オブ・グリーク・エンド・ローマン・バヨグラフィー・エンド・ミソロジー》』巻一)。アキスてふ草花また彼の血から生えた今欧州諸方に生ずる花藺《はない》の事だ(グベルナチス『植物譚原《ミトロジー・デー・プラント》』一)。サラミスの長人《せいたか》アヤース、ギリシア軍のトロイ攻めに武勇抜群だったが敵味方ともオジッセウス戦功無双と讃めしを憾《うら》み自殺した、その血から紫の百合|花葩《はなびら》にアイ、アイとその名の頭字を現わし兼ねて嗟息《といき》吐く声を表わした(スミス同前)。ドイツで薔薇をアドニス花《ブルーメ》と呼ぶは、アドニス殺された折りヴェヌス嘆き男の尸《しかばね》から血一滴下るごとに女神の眼から涙一点落ち血は薔薇涙はアドニス花となった故とか、一説に爾時《そのとき》女神急ぎ走りて刺《とげ》で足を傷《いた》め元白かった薔薇花を血で汚して紅色にしたと、しかればスペンサーも「薔薇の花その古は白かりき、神の血に染み紅く咲くてふ」とやらかした、回教徒伝うらく回祖《マホ<bト》天に登る際額の汗|堕《お》ちて白薔薇、他の所より落した汗が黄薔薇となったと、また古ギリシア人伝えたはヘーラ睡れる間その夫ゼウス幼児ヘラクレス(ゼウス神、チーリンスの王アムフィトリオーンが軍《いくさ》に往った不在に乗じかの王に化けその後アルクメーネーに通じ生むところ、故にヘラクレス人間《じんかん》に住んだうち常にヘーラに苦しめらる)をしてヘーラの乳を吮《す》い不死の神力を禀《う》けしめた、ところが吮う力余り強かったので乳出過ぎて口外に落ち百合となったとも銀河となったともいう、その百合の花非常に白きを嫉んでヴェヌス女神海波の白沫より出現し極浄無垢の花の真中に驢《うさぎうま》の陽根《いちもつ》そのままな雌蕊《めしべ》一本真木柱太しく生《はや》した、しかしその無類潔白な色を愛《め》で貞女神ヘーラまたジュノンおよびスベスの手にこの花を持つ、それと同時に件《くだん》の陰相に因んで好色女神ヴェヌスと婬鬼サチレスもこの花を持つ(グベルナチス、巻二)。ここに言える百合は谷間百合《リリス・オブ・ヴァレー》(きみかげそう)だともいう、耶蘇《やそ》徒は聖母がキリストに吮わせた乳少々地に堕ちてこの草になったと伝う(ベンジャミン・テイロール『伝説学《ストリーオロジー》』第九章)。紀州田辺近き上芳養《かみはや》村の俗伝に弘法大師筆を馬蓼《いぬたで》の葉で拭うた、自来この草の葉に黒斑|失《う》せずとて筆拭草と呼ぶ、『淵鑑類函』二四一に『湘州記』いわく〈舜蒼梧の西湖に巡狩す、二妃従わず、涙を以て竹を染む、竹ことごとく斑となりて死するなり〉、また『博物志』に〈洞庭の山帝の二女啼き、涕を以て竹に揮い竹ことごとく斑なり、今|下雋《かしゅん》に斑皮竹あり〉、わが邦の虎斑竹のごとく斑ある竹を堯の二女娥皇と女英が夫舜に死なれて啼《な》いた涙の痕としたのだ、英国などの森や生垣の下に生える毒草アルム・マクラツムはわが邦の蒟蒻《こんにゃく》や菖蒲とともに天南星科の物だ、あちらで伝うるはキリスト刑せられた時この草|磔柱《たっちゅう》の真下に生えおり数滴の血を受けたから今はその葉に褐色の斑あると(フレンド『花および花譚《フラワース・エンド・フラワーロワー》』巻一、頁一九一)。英国ダヴェントリー辺昔|嗹人《デーンス》敗死の蹟に彼らの血から生えたという嗹人血《デーンス・ブラッド》なる草あり、某の日に限りこれを折ると血出ると信ぜらる、これは桔梗科のカムバヌラ・グロメラタ(ほたるぶくろの属)の事とも毛莨《きんぽうげ》科のアネモネ・プルサチラ(おきなぐさの属)の事ともいう(同上、頁三一五。一九一〇年十二月十七日『ノーツ・エンド・キーリス』四八八頁)。アルメニアのアララット山の氷雪中に衆紅中の最紅花、茎のみありて葉なきが咲くトルコ人これを七兄弟の血と号《な》づく(マルチネンゴ・ツェザレスコ『民謡研究論《エッセイス・イン・ゼ・スタジー・オヴ・フォーク・ソングス》』五七頁)。わが邦の毒草「しびとばな」も花時葉なく墳墓辺に多くある故|死人花《しびとばな》というて人家に種《う》うるを忌む(『和漢三才図会』九二)というが、この花の色がすこぶる血に似ているのでかく名づけたのかも知れぬ、『説文』に拠ると今から千八百余年前の支那人は茜草を人血の所化《なるところ》と信じた、ドイツ、ハノヴワルの民ヨハネ尊者誕生日(六月二十四日)の朝近所の砂丘に往き学名コックス・ポロニカとて血の滴り様に見ゆる
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