の声左右にあるごとく酒|几上《きじょう》に傾かざる者なしとあって、虎の声は随分大きいが獅に劣る事遠しだ、『類函』に魏明帝宣武場上にて虎の爪を断ち百姓をして縦観せしむ、虎しばしば圏《おり》を攀《よ》じて吼ゆる声地を震わし観者辟易せしに、王戎《おうじゅう》まさに十歳湛然|懼色《くしょく》なしとある、予などは毎度多くの獅、虎が圏中で吼ゆるを観たが一向懼ろしくなかった、家内にあって山上の虎声に駭《おどろ》き酒を傾《こぼ》したなどは余程の臆病者じゃ。『五雑俎』にまた曰く壮士|水碓《みずぐるま》を守りしが虎に攫《つか》まれ上に坐らる、水碓飛ぶがごとく輪《まわ》るを虎が見詰め居る内にその人甦った、手足|圧《おさ》えられて詮術《せんすべ》ない、ところが虎の陽物|翹然《にょっきり》口に近きを見、極力噛み付いたので虎大いに驚き吼え走ってその人|脱《のが》るるを得た、またいわく胡人虎を射るにただ二壮士を以て弓を※[#「※」は「士と冖と一と弓を上から順に組み合わせたもの+殳」、32−14]《ひ》き両頭より射る、虎を射るに毛に逆らえば入り毛に順《したが》えば入らず、前なる者馬を引き走り避けて後なる者射る、虎回れば後なる者また然《しか》す、虎多しといえども立《たちどこ》ろに尽すべしとは、虎を相手に鬼事《おにごと》するようで余りに容易な言いようだが、とにかくその法をさえ用いれば虎を殺すは至難の事でないらしい。また曰く支那の馬は虎を見れば便尿下りて行く能わず、胡地の馬も犬も然る事なし、これに似た話ラヤードの『波斯《ペルシア》スシヤナおよび巴比崙《バビロン》初探検記《しょたんけんき》』(一八八七年版)にクジスタンで馬が獅を怖るる事甚だしく獅近処に来れば眼これを見ざるにたちまち鼻鳴らして絆を切り逃げんとす、この辺の諸酋長獅の皮を剥製して馬に示しその貌と臭に狎《な》れて惧るるなからしむと見ゆ。畜生と等しく人も慣れたら虎を何ともなくなるだろう。したがって虎を獲た者必ずしも皆勇士でもなかろう。ベッカリはマラッカのマレー一人で十四虎を捕えた者を知る由記し、クルックは西北インドで百以上の虎を銃殺した一地方官吏ありと言った、『国史補』に唐の斐旻《はいびん》一日に虎三十一を斃《たお》し自慢しいると、父老がいうにはこれは皆彪だ、将軍真の虎に遇えば能く為すなからんと言ったので、真の虎の在処《ありか》を聞き往って見ると、地に拠って一度吼ゆれば山石震い裂け馬辟易し弓矢皆|墜《お》ち、逃げ帰ってまた虎を射なんだとある。字書に彪は小虎といえり、虎の躯が小さい一変種であろう。『類函』に虎能く人気を識る、いまだ百歩に至らざるに伏して※[#「※」は「くち+皐(底本では上が「白」ではなく「自」)」、33−12]《ほ》ゆれば声山谷に震う、須臾《しばらく》して奮い躍りて人を搏《う》つ、人勇ある者動かざれば虎止って坐り逡巡《ためらい》耳を弭《た》れて去ると。猛獣に遇った時地に坐れば撃たれぬとは欧人も説くところだ。勇士に限らず至極の腰抜けでも出来る芸当だ。本邦にはあいにく虎がないから外国に渡った勇士でなければ虎で腕試しした者がない。膳臣巴提便《かしわでのおみはすひ》(『日本紀』)、壱岐守宗于《いきのかみむねゆき》が郎等(『宇治拾遺』)、加藤清正(『常山紀談』)、そのほか捜さばまだ多少あるべし。『常山紀談』に黒田長政の厩に虎入り恐れて出合う者なかりしに菅政利と後藤基次これを斬り殺す、長政汝ら先陣の士大将して下知する身が獣と勇を争うは大人気《おとなげ》なしと言った。その時政利が用いた刀に羅山銘を作りて南山と名づく、周処が白額虎を除いた故事に拠ると出づ、『菅氏世譜』に政利寛永六年五十九歳で歿したとあるから、文禄中虎を斬った時は三十四、五の時だ。長政罪人を誅するに諸士に命じて見逢《みあい》に切り殺させらる、長政側近く呼んでその事を命じ命を承《う》けて退出する、その形気を次の間にある諸士察して仕置《しおき》をいい付けられたと知った、しかるに政利に命じた時ばかり人その形気を察する能わず、この人天性勇猛で物に動ぜなんだからだと貝原好古が記し居る。『紀伊続風土記』九十に尾鷲《おわせ》郷の地士世古慶十郎高麗陣に新宮城主堀内に従って出征し、手負《ておい》の虎を刺殺し秀吉に献じたが、噛まれた疵《きず》を煩い帰国後死んだとは気の毒千万な。
 「虎と見て石に立つ矢もあるぞかし」という歌がある。普通に『前漢書』列伝李広善く射る、出猟し草中の石を見て虎と思い射て石に中《あ》て矢をい没《しず》む、見れば石なり。他日これを射たが入る能わずとあるを本拠とするが、『韓詩外伝』に〈楚|熊渠子《ゆうきょし》夜行きて寝石を見る、以て伏虎と為し、弓を彎《ひ》きてこれを射る、金を没し羽を飲む、下り視てその石たるを知る、またこれを射るに矢|摧《くだ》け
前へ 次へ
全33ページ中11ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
南方 熊楠 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング