ゥら虎の事は見えぬが、アフリカに多い獅の事は多く入って居る。有名なアニのパピルスにオシリス神(冥界の判官)の命により、アスビス神死人の心臓と正識の印たる直な羽とを天秤《てんびん》で懸け、その傍に怪物アームメットが居る処の絵あり。アスビスは野干頭人身、これ野干が墓地に多く人屍を食う故屍を掌《つかさど》る神としたのだ。アームメットは鰐首《がくしゅ》獅胴|河馬尻《かばじり》の鵺《ぬえ》的合成獣で、もし死人の心臓と直な羽の重量《めかた》が合わば死人の魂は天に往き得るも、心臓罪障のため不浄で重量が合わぬ時はその屍アームメットに啖われその魂苦界に堕つとした(マスベロ『開化の暁《ゼ・ドーン・オヴ・シヴィリゼーション》』一九一頁、バッジ『冥界経《ゼ・ブック・オヴ・ゼ・デット》』および『埃及諸神譜《ゼ・ゴッズ・オヴ・ゼ・エジプチヤンス》』参取)。『太陽』大正三年二月号の「支那民族南下の事」に述べた通り、孔子など未来生の事を一向度外に置いたようだが、古支那にも身後の境遇に関し全く何たる信念なかったでない一証は、周末戦国の時宋王が屈原《くつげん》を招魂する辞に、魂よ帰り来れ、東方には高さ千仭《せんじん》の長人ありて、人の魂をのみ食わんと索《もと》む、また十日代る代る出て金を流し石を鑠《とか》す、魂往かば必ず釈《と》けん、南方には人肉を以て先祖を祭り骨を醢《ししびしお》とし、また九首の雄※[#「※」は「一と儿を上下に組み合わせる+虫」、74−10]《ゆうき》ありて人を呑む、西方には流沙ありて穀物も水もなし、北方には氷雪千里止まる事がならぬ、天に上らんに九関を守る神虎豹あって上らんとする人を害す、また九頭の人あり、豺狼を従え人を淵に投げ込む、下界へ往けば土伯三目虎首、その身牛のごとく好んで人を食う、どっちへ往くも碌《ろく》な事ないから生き復《かえ》り来れとある。一九《いっく》の『安本丹』てふ戯作に幽霊を打ち殺すと死ぬ事がならぬから打ち生かキかも知れぬとある。すでに死んだ者がどんな怪物に逢ったって食い殺さるる気遣いはないようだが、古支那人は近世の南洋人のごとく、怪物に魂を食わるるとその人個人として自存が成らず心身全滅して再生また極楽往きの望み竭《つき》ると懼《おそ》れたのだろ、このところ大いに仏説にどんな大地獄の罪極まる奴も再生の見込みあるとせると違う、サモア島では以前急死人の魂を他の死人の魂が食うと信じた(ワイツおよびゲルラント『未開民誌《ゲシヒテ・デル・ナチュラルフォルケル》』巻六)。また面白きは鬼までも虎に食われる事が『風俗通』に見える。曰く〈上古の時、神荼《しんと》欝塁《うつりつ》昆弟二人あり、性能く鬼を執る、度朔山《どさくさん》に桃樹あり、二人樹下において、常に百鬼に簡閲す、鬼道理なき者、神荼と欝塁は打つに葦索を以てし、執りて以て虎を飼う、この故に県官常に臘を以て祭る、また桃人《とうじん》を飾り葦索を垂れ虎を内に画き以て凶を禦《ふせ》ぐなり〉、わが朝|鍾馗《しょうき》を五月に祭るが、支那では臘月に祭ったと見えて、明の劉若愚の『四朝宮史酌中志』二十辞旧歳の式に〈室内福神鬼刹鍾馗等の画を懸掛す〉とある、年末窮鬼を駈る意で鍾馗は漢代臘を以て神荼欝塁兄弟を祭ったから出たのだろ。

    (七) 虎に関する民俗

 前条には信念と題して主《おも》に虎を神また使い物として崇拝する事を述べたが、ここには民俗てふ[#「てふ」に「という」の注記]広い名の下に虎に係る俗信、俗説、俗習を手当り次第|序《の》べよう。まず支那等で虎の体の諸部を薬に用ゆる事は一月初めの『日本及日本人』へ出したが、少しく追加するとインドのマラワルの俗信に虎の左の肩尖《かたさき》の上に毛生えぬ小点あり、そこの皮また骨を取り置きて嘗《な》め含むと胃熱を治す、また虎肉はインド人が不可療の難病とする痘瘡《とうそう》唯一の妙剤だと(ヴィンツェンツォ・マリア『東方遊記《イルヴィアジオ・オリエンタリ》』)。安南の俗信に虎骨ありて時候に従い場処を変える、この骨をワイと名づく、虎ごとにあるでなく、最も強い虎ばかりにある、これを帯びると弱った人も強く心確かになる、因って争うてこれを求むとあるが(ラント『安南民俗迷信記』)、ワイは支那字|威《ウェイ》で、威骨《ウェイクツ》とて虎の肩に浮き居る小さき骨で佩《おび》れば威を増すとてインドでも貴ぶ(『日本及日本人』新年号(大正三年)二三三頁を見よ)。安南人また信ず、虎鬚有毒ゆえ虎殺せば鬚を焼き失う習いだ。これを灰に焼いて服《の》ますとその人咳を病む、しかし死ぬほどの事なし。もし大毒を調《ととの》えんとなら、虎鬚一本を筍《たけのこ》に刺し置くと鬚が※[#「※」は「むしへん+毛」、76−8]《けむし》に化ける。その毛また糞を灰に焼いて敵に服ませるとたちまち死ぬと。安南人
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