十二支考(1)
虎に関する史話と伝説民俗
南方熊楠
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(一) 名義の事
虎|梵《ぼん》名ヴィヤグラ、今のインド語でバグ、南インドのタミル語でピリ、ジャワ名マチャム、マレー名リマウ、アラブ名ニムル、英語でタイガー、その他欧州諸国大抵これに似おり、いずれもギリシアやラテンのチグリスに基づく。そのチグリスなる名は古ペルシア語のチグリ(箭《や》)より出で、虎の駛《はや》く走るを箭の飛ぶに比べたるに因るならんという。わが国でも古来虎を実際見ずに千里を走ると信じ、戯曲に清正の捷疾《すばやさ》を賞して千里一跳虎之助《せんりひとはねとらのすけ》などと洒落《しゃれ》て居る。プリニの『博物志』に拠れば生きた虎をローマ人が初めて見たのはアウグスッス帝の代だった。それより前に欧州人が実物を見る事極めて罕《まれ》だったから、虎が餌を捕うるため跳る疾《はや》さをペルシアで箭の飛ぶに比べたのを聞き違えてかプリニの第八巻二十五章にこんな言《こと》を述べて居る。曰《いわ》く「ヒルカニアとインドに虎あり疾く走る事驚くべし。子を多く産むその子ことごとく取り去られた時最も疾く走る。例えば猟夫|間《ひま》に乗じその子供を取りて馬を替えて極力|馳《は》せ去るも、父虎もとより一向子の世話を焼かず。母虎巣に帰って変を覚ると直ちに臭《におい》を嗅《か》いで跡を尋ね箭のごとく走り追う。その声近くなる時猟夫虎の子一つを落す。母これを銜《くわ》えて巣に奔《はし》り帰りその子を※[#「※」は「うかんむり+眞」、8−3]《お》きてまた猟夫を追う。また子一つを落すを拾い巣に伴い帰りてまた拾いに奔る。かかる間に猟師余すところの虎の子供を全うして船に乗る。母虎浜に立ちて望み見ていたずらに惆恨《ちゅうこん》す」と。しかれども十七世紀には欧人東洋に航して親《まのあた》り活《い》きた虎を自然生活のまま観察した者多くなり、噂ほど長途を疾く走るものでないと解ったので、英国サー・トマス・ブラウンの『俗説弁惑《プセウドドキシヤ・エピデミカ》』にプリニの説を破り居る。李時珍いう虎はその声に象《かたど》ると、虎唐音フウ、虎がフウと吼《ほ》えるその声をそのまま名としたというんだ。これはしかるべき説で凡《すべ》てどこでもオノマトープとて動物の声をその物の名としたのがすこぶる多い。往年『学芸志林』で浜田健次郎君がわが国の諸例を詳しく述べられた。虎の異名多くある中に晋《しん》梁《りょう》以後の書にしばしば大虫と呼んだ事が見える。大きな動物すなわち大親分と尊称した語らしい。スウェーデンの牧牛女《うしかいめ》は狼を黙者《だんまり》、灰色脚《はいいろあし》、金歯《きんば》など呼び、熊を老爺《おやじ》、大父《おおちち》、十二|人力《にんりき》、金脚《きんあし》など名づけ決してその本名を呼ばず、また同国の小農輩キリスト昇天日の前の第二週の間鼠蛇等の名を言わず、いずれもその害を避けんためだ(ロイド『瑞典小農生活《ピザント・ライフ・イン・スエデン》』)。カナリース族は矮の本名を言わずベンガルでは必ず虎を外叔父《ははかたのおじ》と唱う(リウィス『錫蘭《セイロン》俗伝』)。わが邦《くに》にも諸職各々|忌詞《いみことば》あって、『北越雪譜《ほくえつせっぷ》』に杣人《そまびと》や猟師が熊狼から女根まで決して本名を称《とな》えぬ例を挙げ、熊野でも兎《うさぎ》を巫輩《みこども》狼を山の神また御客様など言い山中で天狗を天狗と呼ばず高様《たかさま》と言った。また支那で虎を李耳《りじ》と称う、晋の郭璞《かくはく》は〈虎物を食うに耳に値《あ》えばすなわち止《や》む、故に李耳と呼ぶ、その諱《いみな》に触るればなり〉、漢の応劭《おうしょう》は南郡の李翁が虎に化けた故李耳と名づくと言ったが、明の李時珍これを妄とし李耳は狸児《りじ》を訛《なま》ったので、今も南支那人虎を呼んで猫と為すと言った。狸は日本で専《もっぱ》ら「たぬき」と訓《よ》ますが支那では「たぬき」のほかに学名フェリス・ヴィヴェリナ、フェリス・マヌル等の野猫をも狸と呼ぶ。したがって野狸に別《わか》たんとて猫を家狸と異名す。因って想うに仏経に竜を罵って小蛇子と言うごとく狸児は虎を蔑して児猫といった意味だろう。これに似て日本で猫を虎に擬《なぞら》えた事『世事《せじ》百談』に「虎を猫とは大小剛柔遥かに殊《こと》なるといえども、その形状の相類する事絶えて能く似たり、されば我邦の古《いにし》え猫を手飼の虎といえる事『古今六帖《こきんろくじょう》』の歌に「浅茅生《あさぢふ》の小野の篠原いかなれば、手飼の虎の伏所
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