ウ猛生きいる内は王死なず、汝王たるを望まば所用ありとて竜猛にその頭を求めよ慈悲深厚な菩薩故決して辞まぬだろと勧めた、穉子寺に詣り母の教えのごとく如来の前生身を授けて獣に飼い肌を割《さ》いて鴿《はと》を救うた事など例多く引いて、我求むるところありて人頭を用いたいが他人を殺すと罪重ければ死を何とも思わぬ菩薩の頭をくれぬかと要せられ、さすがの一切智人も婦女の黠計《かっけい》に先を制せられて遁《のが》れ得ず、いたずらに我が身終らば汝の父もまた喪わん事こそ気懸りなれといって、手許に兵刃がないからあり合せの乾いた茅葉で自ら頸を刎《は》ねると利剣で断《き》り割くごとく身首処を異にし、王聞きて哀感しまた死んだと出づ。いわゆる茅《かや》の葉は多分梵名|矩奢《クシャ》、支那で上茅と訳する草の葉だろう。本邦で茅を「ち」と訓じ「ち」の花の義で茅花を「つばな」と訓《よ》む、「ち」とは血の意で昔誰かが茅針《つばなのめ》で足を傷め血がその葉を染めて赤くしたと幼時和歌山で俚伝を聞いたが確《しか》と記《おぼ》えぬ。また『西域記』十二に古《いにし》え瞿薩旦那《くさたな》国王数十万衆を整えて東国の師百万を拒《ふせ》ぎ敗軍し、王は虜《いけど》られ将士|鏖《みなごろし》にさる、その地数十|頃《けい》血に染みて赤黒く絶えて蘗草《くさ》なしと見ゆ、南インド、マドラスの少し南マイラブルは今日英領だが徳川氏の初世はポルトガルに隷《つ》きサントメと呼んだ、したがってそこから渡した奥縞を桟留機《さんとめおり》とも呼んだ、キリストの大弟子中|尊者《サン》トメ最も長旅し、メデア、ペルシア、大夏《バクトリヤ》、インド、エチオピアまた南米までも教化したと言う、いわゆる南インドの尊者《サン》トメ派は唐代に支那に入った景教と同じくネストリウスの宗見を奉ずる故、同じキリスト教ながら新教旧教またギリシア教より見れば教外別伝の概あり、一六七六年マドリッド版ナヴァワッテの『支那歴史道徳論《トラタドス・ヒストリフス・デラ・モナルチア・デ・チナ》』八六頁に尊者《サン》トメ支那に往けり、後世これを崇めて達磨と称うとしばしば聞いたと筆せるはトメと達磨《タマ》と音近く『続高僧伝』等皆達磨を南天竺から支那へ来たとしたかららしい、尊者《サン》トメ山とてその終焉の蹟現存す、けだし尊者マイラプル王の怒りに触れ刑されて死んだとも孔雀を狩る土人に誤殺されたとも
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