驍竅r、押しの強い言いぶりだ、牝虎偈を以て答えていわく〈汝もし師子王を見聞せば、胆|※[#「※」は「『龍』と『言』を上下に組み合わせる」、40−7]《おそ》れ驚怖し馳奔走し、屎尿を遺失して虎籍し去らん、いかんぞ我が夫たるを得るに堪えんや〉、爾時《そのとき》かの中に一師子あり諸獣の王なり、牝虎に向いて偈を説いていわく、〈汝今我が形容を観よ、前分闊大に後繊細なり、山中に在りて、自ら恣活し、また能く余の衆生を存恤す、我はこれ一切諸獣の王なり、更に能く我に勝つ者あることなし、もし我を見および声を聞くことあれば、諸獣|悉皆奔《ことごとくはし》りて住《とどま》らず、我今かくのごとく力猛壮、威神甚だ大にして論ずべからず、この故に賢虎汝まさに知るべし、すなわち夫のために婦となるべきを〉、時にかの牝虎師子に向って答うらく〈大力勇猛および威神、身体形容ことごとく端正、かくのごとく我れ今夫を得|已《おわ》れり、必ずまさに頂戴して奉承すべし〉、かくて師子が虎の夫と定まった、かの時の師子は我が先身、牝虎は今の瞿多弥女、他の諸獣は今の五百釈童子瞿多弥の肱鉄を受けた奴輩だと仏が説かれた。
(大正三年一月、『太陽』二〇ノ一)
玄奘の『大唐西域記』巻三に、北インド咀叉始羅《たつさしら》国の北界より信度《しんど》河を渡り東南に行く事二百余里大石門を度《わた》る、昔|摩訶薩※[#「※」は「つちへん+垂」、41−4]《まかさった》王子ここにて身を投げて餓えたる烏菟《おと》を飼えりとある、仏国のジュリアン別に理由を挙げずに烏菟を虎と訳したが、これは猫の梵名オツを音訳したんだろとビールは言われた、しかしながら前篇に述べた通り虎を『左伝』に於菟とし、ほかにも烏※[#「※」は「きへん+「澤」のさんずいを取った字」、41−6]《おと》(『漢書』)、※[#「※」は「虎+鳥」、41−7]※[#「※」は「虎+兔」、41−7](揚雄『方言』)など作りあれば、烏菟は疑いなく虎の事でその音たまたま猫の梵名に酷《よ》く似たのだ。それから『西域記』に王子投身の処の南百四、五十歩に石|※堵波[#「※」は「あなかんむり+卒」、41−8]《そとば》あり、摩訶薩※[#「※」は「つちへん+垂」、41−9]王子餓獣の力なきを愍み行きてこの地に至り乾ける竹で自ら刺し血を以てこれに啖《くら》わす、ここにおいてか獣すなわち啖うその中地《ところ
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