跡なし〉とある方が一層古い。『曽我物語』にはこの事を敷衍《ふえん》して李将軍の妻孕んで虎肝を食わんと望む、将軍虎を狩りて咋《くわ》れ死す、子生れ長じて父の仇を覓《もと》め虎の左眼を射、馬より下りて斬らんと見れば虎でなくて苔|蒸《む》した石だった、その時石に立てた矢が石竹という草となったとある。『宋史』に〈元達かつて酔って道傍槐樹を見る、剣を抜きてこれを斬るに樹立ちどころに断つ、達ひそかに喜びて曰く、われ聞く李将軍臥虎を射て羽を飲ましむと、今樹我がために断つ豈《あに》神助か〉、『東海道名所記』等に見えた石地蔵が女に化けて旅人に斬られた話は、石橋臥波氏輯『民俗』第三報へ拙考を出し置いた。南宋の淳熙三年金国へ往った大使の紀行『北轅録』にも〈趙州に至る、道光武廟を経て二石人あり、首路に横たわる、俗に伝う、光武河を渡らんと欲し、二人餉を致す、その蹤を洩さんと慮りすなわちこれを除く、またいう、二人に遇いて道を問うに答えず、怒ってこれを斬る、すでにして皆石なり〉とある。
 沈約《しんやく》の『宋書』に檀和之《だんわし》林邑国を討った時林邑王象軍もて逆戦《むかえたたか》う、和之に蹤《つ》いていた宗愨《そうかく》謀って獅の形を製し象軍に向かうと象果して驚き奔《はし》りついに林邑に克《か》ったとある、この謀ずっと古くよりあった証《しるし》は『左伝』に城濮《じょうぼく》の戦に晋の胥臣《しょしん》虎皮を馬に蒙《かぶ》せて敵の軍馬を驚かし大勝したとある。
 林宗甫の『和州旧跡幽考』五に超昇寺真如法親王建、天正年中絶え果て今は形ばかりなる廬《いおり》に大日如来一躯あり云々、平城帝第三の御子、母は贈従三位伊勢朝臣継子、大同の末|春宮《とうぐう》に坐し世人蹲踞太子と申したてまつる、弘仁元年九月十二日三十七歳にて落飾し東大寺の道詮律師の室に入らせて真如親王となん申しき、弘法大師に随いて真言宗を極めたまえり、貞観《じょうがん》三年奏聞を経《へ》唐に渡りここには明師なしとて天竺に渡る、唐土の帝渡天の志を感じて多くの宝を与えたまいけるに、その由なしとて皆々返しまいらせて道の用意とて大|柑子《こうじ》を三つ留めたまえりとぞ、僧宗叡は帰朝すれども伴いたまえる親王は見えたまわねば唐土へ生死を尋ねたまえりける、その返事に渡天すとて獅子州にて群れける虎の逢いて食いたてまつらんとしけるに、我身を惜しむにはあらず我はこ
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