地に拠って一度吼ゆれば山石震い裂け馬辟易し弓矢皆|墜《お》ち、逃げ帰ってまた虎を射なんだとある。字書に彪は小虎といえり、虎の躯が小さい一変種であろう。『類函』に虎能く人気を識る、いまだ百歩に至らざるに伏して※[#「※」は「くち+皐(底本では上が「白」ではなく「自」)」、33−12]《ほ》ゆれば声山谷に震う、須臾《しばらく》して奮い躍りて人を搏《う》つ、人勇ある者動かざれば虎止って坐り逡巡《ためらい》耳を弭《た》れて去ると。猛獣に遇った時地に坐れば撃たれぬとは欧人も説くところだ。勇士に限らず至極の腰抜けでも出来る芸当だ。本邦にはあいにく虎がないから外国に渡った勇士でなければ虎で腕試しした者がない。膳臣巴提便《かしわでのおみはすひ》(『日本紀』)、壱岐守宗于《いきのかみむねゆき》が郎等(『宇治拾遺』)、加藤清正(『常山紀談』)、そのほか捜さばまだ多少あるべし。『常山紀談』に黒田長政の厩に虎入り恐れて出合う者なかりしに菅政利と後藤基次これを斬り殺す、長政汝ら先陣の士大将して下知する身が獣と勇を争うは大人気《おとなげ》なしと言った。その時政利が用いた刀に羅山銘を作りて南山と名づく、周処が白額虎を除いた故事に拠ると出づ、『菅氏世譜』に政利寛永六年五十九歳で歿したとあるから、文禄中虎を斬った時は三十四、五の時だ。長政罪人を誅するに諸士に命じて見逢《みあい》に切り殺させらる、長政側近く呼んでその事を命じ命を承《う》けて退出する、その形気を次の間にある諸士察して仕置《しおき》をいい付けられたと知った、しかるに政利に命じた時ばかり人その形気を察する能わず、この人天性勇猛で物に動ぜなんだからだと貝原好古が記し居る。『紀伊続風土記』九十に尾鷲《おわせ》郷の地士世古慶十郎高麗陣に新宮城主堀内に従って出征し、手負《ておい》の虎を刺殺し秀吉に献じたが、噛まれた疵《きず》を煩い帰国後死んだとは気の毒千万な。
 「虎と見て石に立つ矢もあるぞかし」という歌がある。普通に『前漢書』列伝李広善く射る、出猟し草中の石を見て虎と思い射て石に中《あ》て矢をい没《しず》む、見れば石なり。他日これを射たが入る能わずとあるを本拠とするが、『韓詩外伝』に〈楚|熊渠子《ゆうきょし》夜行きて寝石を見る、以て伏虎と為し、弓を彎《ひ》きてこれを射る、金を没し羽を飲む、下り視てその石たるを知る、またこれを射るに矢|摧《くだ》け
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