た、衣を着ず綿入れた蒲団を寒夜の禦《ふせ》ぎに遣ると破ってその一部分を嚥《の》んでしまったが一八五〇年九月死去した、生存中笑った事なく誰を好くとも見えず何を聞くも解らぬごとし、捕われた時九歳ほどらしく三年して死んだ、毎《いつ》も四這《よつばい》だが希《まれ》に直立し言語せず餓える時は口に指した。ミュラーこのほか狼に養われた児の譚を多く挙げて結論に、すべて狼に養われた児は言語《ものい》わぬらしい、古エジプト王やフレリック二世ジェームス四世それからインドの一|莫臥爾《モゴル》帝いずれも嬰児を独り閉じ籠めて養いどんな語《ことば》を発するかを試したというが、今日そんな酷い事は出来ず、人の言語は天賦で自ずから出来《いできた》るか、他より伝習して始めて成るかを判ずるにこれら狼に養われた児輩に拠るのほかないと言った、さて人の児がどうして狼に乳育さるるに※[#「※」は「しんにょう+台」、31−10]《およ》んだかてふ問題をポール解いて次の通り述べた。曰くたとえば一※[#「※」は「あなかんむり+果」、31−11]中の一狼が生きながら人児を捉え帰り今一狼は一羊を捉え帰るに、その羊肉のみで当分腹を充たすに足る時は人児は無益に殺されず、その間牝狼の乳を吸いそのまま狼の一族と認められたのだろう、また一層もっともらしき解説は狼その子を失い乳房|腫《は》れ脹《ふく》るるより人児を窃《ぬす》み来って吸わせ自然にこれを愛育したのだろう、また奇態な事は従来男児に限って狼に養われたらしいと。
勇士が虎に勝った史話は多く『淵鑑類函』や『佩文韻府』に列《なら》べある。例せば『列士伝』に秦王|朱亥《しゅがい》を虎|圏《おり》の中に著《お》いた時亥目を瞋《いか》らし虎を視るに眥《まなじり》裂け血出|濺《そそ》ぐ、虎ついにあえて動かず。『周書』に楊忠周太祖竜門の狩に随うた時独り一虎に当り、左にその腰を挟み右にその舌を抜く、小説には『水滸伝』の武松《ぶしょう》李逵《りき》など単身虎を殺した者が少なからぬ、ただし上の(三)にも述べた通り虎の内にも自ずから強弱種々だから、弱い虎に邂逅《めぐりあわ》せた人は迎えざるに勇士の名を得たのもあろう、『五雑俎』巻九に虎地に拠りて一たび吼ゆれば屋瓦皆震う、予黄山の雪峰にあって常に虎を聞く、黄山やや近し、時に坐客数人まさに満を引く、※然[#「※」は「九+虎」、32−6]《こうぜん》
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