ナ父の稚名を虎之助といったからの名だ。この人は至って愚人だったよう『常山紀談《じょうざんきだん》』など普通書き立て居るが、随分理窟の立っていた人だったのは塩谷宕陰《しおのやとういん》の『照代記』その改易の条を見ても判《わか》る、曰く〈ここにおいて忠広荘内に百石を給い(その子)光正を飛騨に幽し※廩[#「※」は「しょくへん+氣」、85−9]《きりん》百人口を給う、使者本門寺に往き教を伝う、忠広命を聴き侍臣に命じて鹵簿《ろぼ》中の槍を取り、諸《これ》を使者に示して曰く、これ父清正常に把《と》るところ、賤岳《しずがたけ》に始まり征韓に至る大小百余戦、向うところ敵なし、庚子の役また幕府のために力を竭《つく》し以て鎮西《ちんぜい》の賊を誅す、伝えて忠広に至り、以て大阪に従役す、而今かくのごとし、また用ゆるところなし、すなわち刃を堂礎に※[#「※」は「事+りっとう」、85−13]《さ》し以てこれを折る。荘内に在るに及んで左右その人を非《そし》るを見、詩を賦して以て自ら悲しむ、三十一年一夢のごとく、醒め来る荘内破簾の中の句あり、聞く者これを怜《あわ》れむ〉。英人リチャード・コックス『江戸日本日記』一六二二年(元和《げんな》八年)二月二十一日の条、コックス江戸にあり芝居に之《ゆ》く途上オランダ館に入り肥後か肥前の王に邂逅す、武勇な若い人で年々五十万石を領す、今蘭人に事《つか》え居る僕一人、先にかの王に事えた縁によりオランダ館を訪ねたのだ。彼予に語る予この日オランダ館へ来なんだら予をも訪ぬるつもりだったと。彼予に対するにその礼を尽くし彼の領国へ往けばすべての英国人を優待せんと申し出でられたと筆し居る。一七三二年版チャーチルの『航記紀行集函《ア・コレクション・オヴ・ヴォエイジス・エンド・トラヴェルス》』巻一に収めたる元和寛永頃カンジズス輯録『日本強帝国摘記《サム・キュリアス・リマークス・オヴ・ジャパン》』にカットフィンゴノカミ(加藤肥後守、即ち忠広)五十五万四千石、ナビッシマシナノ、フィスセン、ロギオイス(鍋島《なべしま》信濃、肥前|名護屋《なごや》)三十六万石とあり、コックスが肥後か肥前の王五十万石を領すといえるは忠広なる事疑いなくこの人勇武なるのみならず外人に接する礼に閑《なら》い世辞目なき才物たりしと見ゆ。(完)   (大正三年七月、『太陽』二〇ノ九)

    (付) 狼が人の子
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