のである。第三は苦を樂觀する[#「樂觀する」に白丸傍点]のである。
 途中で不意に風雨に遭ふ。傘はなし。雨宿りすべき家もない。立寄るべき樹陰もない。かういふ場合に、先づ、切りに愚痴をこぼして、恨んで甲斐もない天を恨むなどは到底苦を脱する所以ではないのであるが、其外に、一旦は、これは困つたことになつたと思ひながら、又忽ちに思かへして、まあまあ※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]り合せが惡るかつたのだから仕方がないといふ風にあきらめて、濡れながらぽつぽつ歩くといふのは第一に屬するものであります。併しながら、我々は又、時としては、殊更に困難と健鬪して見たいといふ樣な氣を起して、履物でも脱いで、尻でも高く端折つて、強て風雨を衝て駈出して大に痛快を覺ゆるといふ樣なこともある、是れは第二に屬するのであります。又、在り合せの蓮の葉でもちぎつて頭にかぶり、自ら畫中、詩中の人となつて、是れも風流だといふ風に、苦の根本たる風雨を美化し、樂觀するのは第三に屬するのでありませう。
 非常の貧苦に迫るとか、非常の不幸に遭遇するとか、非常の迫害に出遭ふとかいふ場合に當て、一旦は神の正義を疑ひ、佛の慈悲、聖母
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