一緒にしたものであつて、プラトーン[#「プラトーン」に傍線]の世界觀などは即ち其一例であります(但しプラトーン[#「プラトーン」に傍線]自身は現實界と實在界とを峻別した結果として第三の禍惡觀を取つては居らぬけれども)。一切の事象は『善』の觀念に規定されて居るといつて初めて歡喜の念を以て[#「歡喜の念を以て」に丸傍点]之に服從せねばならぬといふことが起るのである。此塲合に於ては、實在其物が、デーモクリトス[#「デーモクリトス」に傍線]の原子の樣に瞽盲的のものでなく、又スピノーザ[#「スピノーザ」に傍線]の本体の樣に無色無規定のものでなく、『善』といふ目的論的の着色を帶びて居るのであるから、我々と實在との間に人格的の關係(但し、前に述べた成立宗教の所謂人格的の關係とは異なる)が成立つて、一切の事象を歡喜の情を以て迎へねばならぬといふことが起るのであります。
 次に第二の禍惡觀と契合する世界觀の例を擧ぐれば、ハルトマン[#「ハルトマン」に傍線]氏の世界觀は其適例であります。即ち、宇宙其物が贖罪の過程に於てあるのである。此過程が終局に歸せざる間は禍惡は决して根絶するものではない。夫れで我々は出來るだけ苦を冒[#「冒」に丸傍点]し、禍惡と健鬪[#「健鬪」に丸傍点]し、宇宙の贖罪に出來るだけの貢献をなさなければならん。是れが我々の本務である。苦は苦であるけれども解脱の道行きには避くべからざる嶮路であるから、勇を皷して之を越えねばならぬと言ふのであります。即ち第三とは異なつて、禍惡は飽くまでも禍惡と見て[#「禍惡は飽くまでも禍惡と見て」に丸傍点]、決して禍惡其物を美觀樂觀するものではありません。禍惡としての[#「禍惡としての」に丸傍点]禍惡[#「禍惡」に白丸傍点]を認め、而して此禍惡と戰ひ禍惡を冒すを以て本務と心得ねばならぬといふのであります。
 要するに、第一の禍惡觀は非目的論的によつても立つことが出來るけれども、第二、第三の禍惡觀は目的論的の宇宙觀の上でなければ立つことは出來ぬ。而して、等しく目的論的宇宙觀にしても、第二の禍惡觀は實在の觀念と『美』の觀念とを直接に[#「直接に」に丸傍点]一緒にせずして、實在を進化的[#「進化的」に白丸傍点]、發展的[#「發展的」に白丸傍点]に見たる世界、從つて、一切の事象は其儘美[#「其儘美」に丸傍点]ではないけれども美に對して何等かの旨趣を
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