、氏が体達して居つた『知的愛』も亦决して此の如きものではありません。氏が其哲學上の汎神論の立脚地よりして、成立宗教[#「成立宗教」に白丸傍点]の人格神の觀念を排斥し、成立宗教[#「成立宗教」に白丸傍点]の所謂『神の愛』を否定し、祈祷を聽き因果律を左右するといふ樣な擬人神の觀念を打破したのは非常の効績と言はねばなりません。是れ即ち氏が知の方面の偉大なるを示すものであります。乍併、此汎神論と『神の知的愛』との間には論理的の必然の關係[#「論理的の必然の關係」に丸傍点]は無い。氏は純粹なる學理[#「學理」に丸傍点]の一方よりして、其本体を何等の規定も着色もなきもの[#「何等の規定も着色もなきもの」に傍点]としながら、而かも一方に於ては情性[#「情性」に丸傍点]の要求よりしては、不知不識の間に『善[#「善」に丸傍点]』といふ着色を與へて居るものと言はねばなりません。少くとも、本体に[#「本体に」に二重丸傍点]『善[#「善」に二重丸傍点]』といふ着色を與へなければ[#「といふ着色を與へなければ」に二重丸傍点]、其本体論の後件として[#「其本体論の後件として」に丸傍点]氏の禍惡觀は出て來ぬ[#「氏の禍惡觀は出て來ぬ」に二重丸傍点]と言つて宜しいのであります。而かも、此論理的の關係の無い處に[#「此論理的の關係の無い處に」に白丸傍点]『神の知的愛[#「神の知的愛」に白丸傍点]』を唱ふるところが又氏の人格の偉大なる所以であります[#「を唱ふるところが又氏の人格の偉大なる所以であります」に白丸傍点]。若し是れが無つたならば、氏は單に一個の學者としてえらいのみであつて、完全な人としてえらいとは言はれません。此點は實に、氏が單に知性の人として卓越な學者であるのみならず、情性の人として卓越して居ることを示すものであらうと思ふのであります。
 以上は、單に宇宙觀の性質上より言へば論理上[#「論理上」に丸傍点]决して第一の禍惡觀以上に出ることの出來ぬものが、不知不識の裡に第三の禍惡觀を取れるものゝ例でありますが、又其宇宙觀の性質上より言つて[#「其宇宙觀の性質上より言つて」に白丸傍点]第三の禍惡觀とよく契合して居るものもあります。是れは即ち、知[#「知」に二重丸傍点]の要求に基ける實在[#「實在」に丸傍点]の觀念と情性[#「情性」に二重丸傍点]の要求に基ける『善[#「善」に丸傍点]』の觀念とを
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