いさえすれば、まずまず「役人」にしかられずにすむのは、役人もまたわれわれと同じ人間だからです。
 このことはあらためてことごとしくいうまでもないきわめて当然な事柄である、と私は考えます。しかるに実際において、われわれがときどき耳目にする役人の行動はややともすれば私のこの信念を裏切ろうとします。そうしてそのたびごとに、私は「役人の頭」を疑わざるをえなくなるのです。なんとなく自分らもあの役人のもとで安心しているわけにはいかぬ、役人のほうでどうにかなってもらうか、ないしはああいう「頭」の役人がいなくなるような仕組みをつくらなければ安心していられないような気がするのです。
 私のような比較的「役人」に近い学問を専門とし、「役人養成所」だと世間から悪口をいわれている帝国大学の法学部に職を奉じ、役人にたくさんの知己をもっている者ですら、とかくそう思われてならないのである。してみれば、世間普通の人々の目には現在の「役人の頭」がもっとよほど変に映っているのではあるまいか。そうして彼らのうちの多数者たる利口者は、「役人」はああいうもの、「国家」はこういうものと大きくあきらめて、長いものには巻かれるほかないと考え、また彼らのうちの皮肉屋は、冷眼をもって「役人」と「国家」とをながめて、これに嘲罵と皮肉とをあびせ、なおまた彼らのうち勇気ある反逆者たちは、かくのごとき「役人」とこれによって代表される「国家」に向かって、いむべきのろいの声をあげているのではあるまいか。私にはどうしてもそう思われてならないのです。

       五

「役人」はよく「近頃の若い者は国家心がうすくて困る」という。しかし、私は事実なかなかそうではない、今日の若い者の大多数は今日なおかなり熱心な国家主義者だと思う。がもしも、今の若者に多少なりとも、国家をきらうふうがあるとすれば、その最も大きな責任者は「国家」を代表する「役人」であるように思われてならない。
 役人や長老たちはややともすれば、若者のこの傾向をもって「外来思想」の結果なりとする。なるほどそれも多少あろう。けれども、「外来思想」はただ彼らを目ざめしめただけのことである。目がさめて目を開いて彼らが見たところの「国家」さえ事実において善美を尽くしていたならば、彼らの目ざめはむしろ慶すべきことでこそあれ、なんら恐るるに足りないのです。しかるに、目ざめた彼らが、事
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