、一方においては、いずれも国家と法律と役人とにとって最もにがてな問題である。問題本来の性質上、役人の指導を許さざるもの、役人はただこれを取り締まる以外なんらの能力もあるべきはずのない事柄だからです。しかも他方において、わが国人をして今後人類文化のためになにものかを貢献せしめるがためには、これらの方面における国人の考え方と活動とをして、自由に活躍せしめねばならないからです。今日わが国はあらゆる方面において行きづまっています。政治においても、経済においても、法律においてもそうです。道徳の方面においても、また同様だということができましょう。旧来のものはすべてその権威を失いました。また少なくとも失わんとしています。伝統主義者はこれをみて慨嘆しています。けれども私はかくしてこそ、わが国がいきいきと伸びてゆくのだ、これこそ実に新日本への木の芽立ちと考えています。役人はなにゆえにこの伸びてゆく若芽を刈らんとするのであろう?
 彼らはみずから称して「思想を善導する」という。しかし「善」とははたしてなにか。彼らははたして確信をもってこれに答えうるものであろうか? 否、私はそうは思わない。なぜならば、今やまじめに考えている国民はみなひとしく「善とはなんぞや」の問いに答えかねて煩悶を重ねている。彼らもまたその例外であるはずはないからです。
「善」とはなんぞや。国民はみなその問いに答えかねて偉人のくるのを待っている。そのときにあたって、役人が「伝家のさび刀」をかつぎだして、われこそは「思想の善導者」である、と大声疾呼したところで、誰かまじめにこれを受け取る者があろう。この際役人もまた人間の間に下りきたってみな人とともに「善」とはなんぞやという普遍の公案を考えねばならない。かくしてこそ、彼らもまた国民とともに悲しみうる真の人間らしい役人となりうるのであって、それのみが今日の国家をして永く安泰ならしめる唯一の策だと私は考えるのです。

       一四

 なお終りに一言いっておかねばなりません。今の役人の中で無性に「伝家のさび刀」をありがたがり、これによって国民を「善導」せんとする者はむしろ上役の者に多い。しかも、この考え方は十分下役に徹底していないために、ややともすれば下役の考え方を強制する。その結果、みずから行いつつある行為について十分の確信をもたない下役の役人が、とにかく上官の命ずる
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