を自分でさがさねばならないのだと考えはじめました。しかし、今まで盲目的に導かれて走ってきた者が、突然指導者を失って急に目をあけてみても、さて自らどちらへ行っていいのかを判断することはきわめて困難です。それはちょうど戦地において敵の軍使を迎える際にまず布をもって彼の目をおおうた上、車をもってある距離を走らしめ、しかる後はじめてその布を除く、かくして目かくしを除かれた軍使には、とうてい敵陣の様子を十分知ることができないのと同じことです。また現在、自己がどこに立っているかを知らぬ者にとっては、いかに詳細な地図もなんらの効能もないのと同じことです。国民はおのおの自己のよしと思うところをたずねて動きはじめました。ある者は古きをたずね、ある者は新しきを追うて。そうしてそのうちきわめてわずかな者だけがみずから考えはじめました。これを称して人は「民心の混乱」というのです。
まだ明治の夢をみている役人と伝統主義者とは驚きました。
「民心統一」せざるべからずと考えたのです。しかし、彼らが従来人民を導きえたのは西欧文化という他人からもらった目標をもっていたからです。ただそれだけを目標として別に深く考えることなしに指揮的態度をつづけてきたのです。ところが今、ようやく追いつきかけたと思うころに欧米はもはや新しい別な方向に向かって進もうとしている。否、すでに進みはじめました。ここにおいて役人と伝統主義者とはもはや彼を追うことはできないということに気がついた。けれども、しからばみずからに独自な別個の目標ありやというに、むろんそれはない。
彼らは従来、あまりに修養を怠りすぎたのです。「自分ははたしてどっちへ行ったらいいのだろう?」彼らはこう疑いはじめたのです。独自力のない彼らはそのとき考えました。欧米もはや追うべからずとせば、わが国みずからの古きに返るよりほか仕方がない。こう考えた彼らは、たちまち復古主義者となって、五〇年来深いお世話になった、そうしてみずから神のごとくにあがめていた、欧米の文化をたちまち弊履のごとくなげうって口汚くののしりはじめました。
そうして外来思想を非難し、魂の抜けた「えせ武士道」を鼓吹し、はなはだしきに至っては物質文化まで排斥し、精鋭な新武器をすてて再び刀をかつぎだすようなことを唱えはじめたのです。彼らの「民心統一」といい、「民力涵養」といい、「淳風美俗」というもの
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