について発見するのである。
現在我が国の諸大学で行われている解釈法律学の講義は、大体法典法条の理論的解説を与えるのを主たる内容としているから、これを聴く学生が、法学というものは法典の意味を説明するものだというふうに軽く考えやすいのは極めて自然であるが、その結果学生の多数は、中学以来彼らの称して暗記物と言っている学科を学ぶのと同じような気持で聴講その他、学習を行うようになるのである。無論、解釈法律学の一方面は法典法条の理論的解説にあるから、学生としても、法典法条の意味を正しく理解し、かつこれを記憶することは必要である。しかし、それだけが法学学習の全部であると考えるのは非常な誤りである。言うまでもなく、法学教育の目的は広い意味における法律家の養成にある。必ずしも裁判官や弁護士のような専門的法律家のみの養成を目的としてはいないが、広義の法律家、即ち「法律的に物事を考える力」のある人間を作ることを目的としているのである。ただ講義を聴いていると、いかにもただ法典の説明をしているように思われる、そうして先生は、ただ法典の意味をよく理解し、かつこれを記憶している人のように思われる。ところが、実際講義を通して学生の得るものは、法典の意味に関する知識の蓄積のみではなくして、法律的に物事を考える力の発達であって、一見専ら法典の解説のみで終始しているように思われる講義でさえも、この考える力を養うことに役立っているのである。だから学生としては、常にそのことを念頭に置くことが必要であって、さもないと、法律の物識りになることはできても、法律家になることはできない。
しからば「法律的に物事を考える」とは、一体どういうことであるか。これを精確に初学者に説明するのは難しいが、要するに、物事を処理するに当って、外観上の複雑な差別相に眩惑されることなしに、一定の規準を立てて規則的に事を考えることである。法学的素養のない人は、とかく情実にとらわれて、その場その場を丸く納めてゆきさえすればいいというような態度に陥りやすい。ところが、長期間にわたって多数の人を相手にして事を行ってゆくためには、到底そういうことではうまくゆかない。どうしても一定の規準を立てて、大体同じような事には同じような取扱いを与えて、諸事を公平に、規則的に処理しなければならない。たまたま問題になっている事柄を処理するための規準となるべき
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