むような力をもっているゆえんの一つなのだろうという話です。
そこで私はこの話とわれわれの商売たる法律とを思いくらべてみて、その間に大変おもしろい類似点を発見したのです。それはほかでもありません。法律はいわば作曲にあたるもの、それを裁判官が衣裳をつけ舞台に出て実際の上演をやる。そのときの裁判官は真剣です。立法者が空に考えたり、学者が抽象的に考えたりするのとは違って、眼の前には実際の利害関係をもった当事者本人がいるのです。そうしてその人間のいろいろの事情なども知っているのです。その本舞台でいよいよ本式に作曲家から渡された音譜を歌わなければならないのです。どうして譜だけを頼りにしてただそのとおりに歌いさえすればいいというようなことがありましょう。そんなことでは聴者はさらに感心しないのです。ところが今日の日本においては作曲家たる立法者にも役者たる裁判官にもこの考えが十分に呑み込めていないように思われてなりません。しかし今日の裁判官といえどもこの心得がなくてどうしましょう。裁判官は、前にも述べたように、その全人格によって判断を下す。しかし今日は法治国であるから、それになにか法律という物差しをあてなければ世の中の人が承知しない。しかのみならず物差しをあててみなを感心させるには種々な材料を使ってあるいは法律第何百何条にこう書いてあるから、おまえもしかじかこれこれと心得ろといえば聞く者もなるほどそうかと思う。またあるいは法律には明文がない、けれどもこれは多年当裁判所においてかくのごとく判決したるをもっておまえだけが特にかくかくの取扱いを受けるわけにはいかないといって聞かせれば、なるほどそうかと思う。またさらにある場合には、どうも判例もなし法律にもうまいことが書いてない。そのときには裁判所はなんというかというと、これこれの点はかくかくとならなければならないが、これはわが学界、学者の説を聞いてみても「通説おおむねかくのごとし」だから、おまえもそう思え、といって聞かせれば、これを聞く人も感心して、なるほどこんなえらい学者たちがそういっているのならば私もやむをえない、裁判に服します、というようなぐあいで判決が正当な理由あるものとして一般に取り扱われることになるのです。要するに裁判は最初議会の作ってくれた物差しを機械的に動かしただけでできるのではありません。裁判所は一方においてはまずその全人格を基礎として結論を下し、これに種々の物差しをあて、この判決は決して不公平ではない、ということを一般に呑み込ませる。そこが裁判官の役目でかつ最もむずかしいところなのです。
かくして初めて、本当の人間らしい上にも人間らしい結論が出て、ひとり議会が作ってくれた物差しのみでなく、いろいろの物差しが適当に使われて判決が下されるから、結局聴く人も感心するというわけです。
かくのごとくなってゆけば、法律が裁判所によって今少しく人間らしいものとして取り扱われるようになりうると思うのです。
次に裁判が今少しくわれわれの人間としての感じに合うようになるには、どうしたらよいかという同じ題目をも一つ違った方面から話してみたいと思います。諸君も御承知のとおり、ただいま陪審法なるものが枢密院から内閣にもどったり、内閣から枢密院にきたりして、われわれが将来支配を受けようとする法律の案が、秘密のうちに空の上を歩いております。まことに気味の悪いしだいでありますが、あの陪審法に対しては世の中に賛否の声が種々あります。ところが裁判官の大多数はあれに反対である。それは自分の信念にもとづいてなすところの判決が、客観的にみて公平であるか正当であるかは別問題として、少なくとも自分の信念において、正しくいっているものを、素人のなにもわけのわからない者が出てきて、いい加減に有罪、無罪といわれては困る。これが裁判官の反対論で、裁判官としてはまことにもっとも至極な言い分だと思います。しかし裁判官の中で陪審制度に反対する人々の多数はなによりも、もしも陪審制度を採用するときは、理屈のない裁判ができるということを恐れるようですが、そのいわゆる理屈なるものがはたしてどんなものであるかをよく審査してみた上でないと、おいそれとこの説に賛成できないのです。裁判官御自身は正しい理屈だと思っても、世の中の普通の人間が変な理屈だと思って、それを承知しなければ結局裁判としては目的にかなわないのですから、いかなる裁判が最もいい裁判かということは専門の裁判官だけでうまく判断できるものではないのです。専門家からみたら無知かもしれないが、ともかく実社会に立って働いている生地の人間を一二人もつれてきて、理屈はとにかくとして、おまえは素人としてこの事件をどう思うかと問うてみる。すると、よって得られる結果は、あるいは理屈からいうと首肯されえない
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