ものである。したがって本当に人間らしくなれば神さまに一番近くなったものである。それで初めて人を裁く資格ができてくるのである。かくのごとき立派な人格の持ち主によって与えられる裁判にして初めて真に勇気もありまた人間味もあり、しかも法律にもはずれないものになるのである。
 それで、私は、もし大岡裁判に関する巷説のすべてが真実であるとすれば、大岡越前守はおそらくこの理想によほど近づいていた立派な人格者であったのだと思います。
 ところが、今日では裁判には結論のほかに理由が必要になってきました。いかに結論がよくても理由がなければ今日の裁判として不完全なものです。それはなぜかというと、フランス革命を境として世界至るところに平等思想が生まれました。その思想は第一九世紀から二〇世紀にかけてますます発達し、初め形式的なものであったのがだんだんと実質的なものになってゆきます。この平等思想が裁判制度の上に現われたのは何かというと、それはいわゆる法治主義です。法治主義はこれを最もひらたくいえば一種の物差しのようなものです。あらかじめ法律という物差しをこしらえておいてこれを裁判官に渡す、裁判官はあたかも呉服屋の番頭さんが物差しで切地をはかるように、与えられた物差しで事件を裁きます。そうすれば最も公平に厳正に事件が裁かれる。これがすなわち法治主義の考えです。その結果、裁判官は万事物差しに拘束されて自由な働きができないことになるのですが、これというのも畢竟裁判官の専断を防ぎ不公平を防がんとする主旨から生まれたもので、それがため今日の裁判官は物差しさえもっておればほかのことは何も知らないでもいいのだなどと誤解してはいけません。呉服屋でさえ物差しだけもっておれば商売ができるというものではありません。ところが世の中には、裁判官に物差しを与えかつこれを扱う技術さえ教えてやればそれで立派な裁判官ができる、それが法治主義の理想のように考えている人も少なくないようですが、それはきわめて間違った考えです。法治主義の理想は、公平にやれ、裁判官がわがままかってな処分をやってはならぬ、というにあるのです。決して人情を無視していいとか、法の技術さえ心得ておれば法の精神や理想については何も知らなくてもよろしい、裁判官は肉挽き器械のように自動的に裁判を絞り出せばそれでよろしい、というようなものではないのです。法治国における裁判官といえども昔の大岡越前守と同じように人間として立派な人でなければいけない。人間として最も完全に近づくように心がけなければいけない。ただその昔の裁判官と違うところは、自分の全人格から自然に流れ出てきた裁判に、現行法を基礎とする理由を附し、裁判を受ける人および世の中一般の人をして自分は決して裁判官の任意な処分で裁判されたのではない、という感じをいだかせなければならないのです。そこが昔と今の違うところで、今日の裁判官のむずかしいところなのです。裁判官には法の理想に関する信念がなければならない。しかも同時に法律に束縛される。この理想の要求と公平の命令とをいかに調和すべきかが、今の裁判官にとって最もむずかしい大事な問題なのです。
 それでこの調和問題については私は理想の要求に重きを置くべきであるということをいいたいのですが、このことについて一つのおもしろい話がありますから、それをお話しいたします。
 それはイタリアの音楽家の話ですが、その話によると、音楽家が例えばオペラを作る、そうして役者を指導して上演させる。作者はむろん全力を尽くして自分の最もいいと信ずる楽譜を作るわけなのですが、いよいよこれを実際の舞台にかける段になってみると、役者が本式の衣裳をつけて舞台に出る。そうして見物人もいっぱいいる、立派な背景があり、オーケストラもコーラスもまた相手の役者も出て、いよいよ本式に作曲家の作ってくれたものを歌ってみると、なかなか実際上作曲家が自分の全知をふるって考えだした歌が舞台の実際に合わないことが出てくる。役者が実際の場にあたってみると、作曲家の希望や予定とは違った種々のことが出てくる。例えば、このところはこれこれの長さに歌うように、もとの譜はできていても、役者がその場合どうしてもかくかくにしか歌えないということであれば、かくかくに歌うよりほか致し方がない。しからずんば本当に自然な美が出てこないからです。また役者がここは熱情が出るという場合には、その熱情に従って譜を無視して歌ってしまう、それよりほかに仕方がない。ところがイタリアの作曲家はこの最初の上演における役者の実験を是認し、したがって最初の上演において誰々が、こういうふうに歌ったとすれば、それが元来の譜とは違っていても、どんどん歌われてゆく。そこが特にイタリアのオペラがなんともいわれぬ柔らかみをもち、人心の奥底にしみこ
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