とるべき態度を踏み違えたものといわなければなりません。
しかしながら、よくよく考えてみると、かくのごときことは、現在の日本においてひとり法律家のみの行うところではない。実際からいえば現在の世の中のすべてが、いわば小知恵の行きづまりである。第一八世紀以来漸次に自然科学が発達をとげると同時に、自然科学の力を借りれば万事がたちどころに説明がつく、したがって万事が経験と理知とで説明されうるというようなことを、世の中一般の人が軽々しく考えるようになり、ついには現在まだわずかしか発達していない自然科学をもってすでになにかよほど完全なもののように考え、これで万事きりもりしてゆけると考えるようになった。ところが実際の宇宙はもっともっと複雑な深遠なもので、とうてい今日の程度の自然科学ではいかんともしがたいのである。ところがこの種の考え方はすべての方面を支配して、かつては文学にも美術にまでも現われたのである。しかし世の中はもっと複雑です。理屈だけではとうてい説明できず、またわれわれが満足しないのです。そこで小さな理屈にのみ拘泥せずに、人生そのものの現実を直視して、真相をとらえなければならぬ。その傾向は文学、美術などの諸方面においてはすでに大きく現われていると思う。しかるに法律学においては今日なお小知恵が専制しています。それで小知恵をふるい万事を理屈どおりやってみたが、さて出来上ったものはなんとなく人間味が欠けている。これが真に生きた世の中を規律しうるとはどうしても思えない。そこで私はいいたいのです。理屈大いに可なり、しかしその理屈が小さな狭いものであれば、すでになんの役にも立たぬ。また世の中には理屈だけではどうしても解けない複雑なことがたくさんある。人間の生活関係のごときはその最もいちじるしいものの一つで、これを規律する法律および法律学にはどうしても理屈を超越した、現実そのものをありのままに観察して得られるところの幾多の非理知的分子を附加して考えなければならないと思います。これがまず今晩のお話の緒言であり、同時に解題となるわけであります。
それでこれから以下、以上の思想をもとにして、現在の法律をしてもっと人間味のある誰にもなるほどと思われるようなものにするにはどうしたらよいのか、それを説明してみたいと思います。
そこで、法律の存在が一般に諸君の眼に触れるところはどこかというと、第
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