たイギリスにおいて学生たちが学校の食堂で一定の年限飯を食わなければ法学士になれない理由がわかったのです。つまり、たとえ理屈だけがわかっても、真に法律家らしい生活経験をした者でなければ、法律家として完全なものだといえない、というわけなのだと思います。
今までのところ、日本において法律とは何であるかといえば、法律家がホンの小さな小知恵の持ち主として作ったにすぎない。そうしてその小知恵にもとづいて作られた法典をさらに小知恵の力でいろいろと論議をなし、これをもって「これわが法なり」と主張され教えられるのである。そもそも法律に最も利害関係の多い人間は誰かといえば、例えば刑法についていうならば犯罪をおかした犯罪人であり、また民法についていえば、例えば金を借りたとか物を売ったとかいうようなことで権利をもったり義務を負うたりする本人たち、それが一番法律の何たるかにつき利害関係を有する人である。かかる人にとっては法が何を命じているかが明瞭であることが何より必要なのです。しかるに現在たくさんある法律書をあけて自分の心配事を相談してみると、あるいは消極説だとか積極説だとかいうものがあり、さらにまた折衷説なるものがあり、そうしてまた時には「余輩は第四説を採る」などとさらに異説をたてる先生もある。全く異説の展覧会である。ここにおいて誰が一番迷惑するかといえば、それは現に心配事をもった当人で、いろいろ先生の著書を見たり先輩学者の意見を聞くが、いろいろ説があってなんのことだか一向に判然しない。学者はわずかな小知恵をもとにしてひたすら異説をたてることのみを志し、これで結構オリジナリティーを出したような顔をしている。しかしいったい学者の本分ははたしてそんなものでしょうか。否、私はそう思わない。学者の役目は、裁判所や立法府と協力して、一方においては現在の法律はかくかくのものであるということを一般国民に示して、そのよるところを知らしめるにある。であるから、できるならば、いわゆる学説の数を減らすことをひたすら心がけてこそ立派な学者である。そうしてまた他方においては、大きな眼からみて将来法律の進みゆくべき道を示すことに努力してこそ、真に学者の本分が発揮されるわけである。いたずらに小知恵にとらわれて末節にのみ走り、積極説、消極説に次いで折衷説さらに第四説、第五説を生み出すごときに至っては、全く法律家のまさに
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