国自由法運動の最も熱心な代表者たる牧野博士は「之れこそ民法第十七条の例外が裁判所に依って拡張されたものだ」と解され、これと反対にわが国におけるフランス法派の大先輩たる富井博士はこれを難じて「第十七条の例外が拡張されたのではない、裁判所は事実許可があったと云って居るのだ」といわれた。われわれはこの小論争を傍観して、そこに外面に現われた文字や論理の以外に、両博士の心の動き方をみることができたように思われて非常に興味を感じたのです。「見て見ぬふりをする」フランス流の扱い方と、それを合理的に扱って進化の階梯にしようという自由法的の考え方との対照を見ることができたのです。

       八

 かくのごとく、歴史上「嘘」はかなりの社会的効用を呈したものであります。現在もまた同じ効用を現わしているものと考えることができます。それは人間というものが、みずからはきわめて合理的だとうぬぼれているにかかわらず、事実は案外不合理なものだということの証拠です。
 しかし純合理的に考えると、「嘘」はいかぬに決まっています。あった事をないといい、なかった事をあったというのは、きわめて不都合です。ですから、一般に
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