は考えています。しかし世の中の「専門家」はとかくこの点を間違えやすい。世の中の人々も、普通にその同じ間違いを繰り返して「専門家」の「素人考え」を不当に尊敬します。私は全く変だと思います。
 私は法律学者です。ですから「法律」および「学問」についてだけはともかくも「専門家」として意見を述べる資格があるのです。だから今ここに「嘘の効用」と題して嘘をいかに処理すべきかという問題を考えるにしても、議論はむろんこれを「法律」および「学問」の範囲内に限りたいと考えます。一般の道徳ないし教育などに関する問題として、いかにも「玄人」らしく意見を述べることはどうも私のがらではありません。
 「法律」の上で、また「学問」一般について、「嘘」は善かれ悪しかれいろいろの働きをしています。それを考えてみることは、ひとり「法律家」にとってのみならず、一般の人々にもかなり興味あることだと思います。ことに私は、私の「法律」および「学問」に対する態度を明らかにするがためには、この「嘘の効用」についての、私の考えを述べることがきわめて重要であり、少なくとも大いに便利だと考えているのです。それが、私のこの稿を起こすに至った主な動機です。

       三

 私はまず法律の歴史の上に現われたいろいろの「嘘」を二、三例示したいと思う。そうしてその「嘘」が実際上いかなる働きをしたかを考えてみたいと思います。
 法律とか裁判とかいうことを考えると、われわれは、じきに大岡越前守を思い起こします。そうして彼こそは、裁判官の理想、名法官であると考えます。今日われわれの世の中に行われている裁判がとかく人情に適しないとか、人間味を欠いているとか、または裁判官が没常識だとか、化石しているとかいうような小言を耳にするたびに、われわれは大岡裁判を思い起こします。そうしてああいう人間味のある裁判がほしいと考えます。
 しからば、大岡越前守がかくのごとくに賞賛され、否、少なくとも講談や口碑にまで伝えられるほど、その昔において人気があったのは、はたしてなぜでしょうか。私は、不幸にしてこの点に関する学問的に精確な歴史的事実を知りません。いわゆる大岡政談の中に書かれている事実のすべてが、真に大岡越前守の業績であるかどうかについて、毫も正確な知識をもっていません。しかし私にとって、それはどうでも差支えないのです。たとえ、あの話の全部が
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