つもなお離婚の判決をくだすのである。ですから、西洋でも実際においては当事者双方の協議によって離婚が行われている。そうしてその際使う道具は一種の「嘘」、一種の芝居です。
 法律は人間のために存するものです。人間の思想、社会の経済的需要、その上に立ってこそ初めて法は真に行われるのです。かつては、社会の思想や経済状態と一致した法であっても、その後、社会事情が変わるとともに法は事実行われなくなる。また立法者が社会事情の真相を究めずしてむやみな法を作ったところが、それは事実とうてい行われない。離婚は悪いものだという思想が真実社会に現存しているかぎり、協議離婚禁止の法律もまた厳然として行われる。しかしひとたび、その思想が行われなくなると、法文上にはいかに厳重な規定があっても、実際の需要に迫られた世人は「嘘」の武器によってどんどんとその法律をくぐる。そうしてことはなはだしきに至れば法あれども法なきと同じ結果におちいるのです。
 同じことは官吏の責任の硬化現象からも生じます。役人といえども飯を食わねばなりません。妻子も養わねばなりません。やたらに免職になっては妻子とともに路頭に迷わなければなりません。ある下級官吏がたまたまある場所を警戒する任にあたっていた。その際一人の無法な男がおどり出て爆弾を懐中し爆発ついに自殺したと仮定する。なるほど、その男の場所がらをもわきまえない無法な所作は、非難すべきものだとしても、たまたま、その場所で警戒を命ぜられていた役人をして絶対的の責任を負わせる理由はないわけです。その役人が責任を負うや否やはその役人が具体的なその場合において、警備上実際に懈怠があったかどうかによって定まるので、偶然その場所にいあわせたというだけの事実をもって絶対的に定まるものではない。ところが現在わが国に行われつつある官吏責任問題の実際はこの点がきわめて形式的に取り扱われてはいないであろうか。停車場が雑踏した場合に、駅長がいかに気をつけても、中には突き飛ばされて線路に落ちる人もあろう。その際駅長が最善の注意を怠らなかったとすれば、彼にはなんらの責任もないわけです。責任はたまたまその突き飛ばした人ないしは雑踏の原因を作った人々にあるわけです。しかるに今の実際では、その際駅長なり駅員なりの中から、必ずいわゆる「責任者」を出さなければすまさないのではないでしょうか。
 責任は、自由の
前へ 次へ
全23ページ中8ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
末弘 厳太郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング