ぱり出されて絞《し》め殺されたし、この次の部屋(わしの寝室)では、わしたちの知っているところでも、一人の奴などは、自分の娘のことについて――そやつの[#「そやつの」に傍点]娘じゃぞ!――何か横柄な気の利いたことを言いおったというので、その場で短剣で突き刺されたものじゃよ。わしたちは多くの特権を失うてしもうた。新しい哲学が流行《はや》って来たでのう。で、当今、わしたちの地位をあくまで主張するとなると、ほんとうに不便な目に遭うかもしれんわい。(わしは遭うだろうとまでは言わぬ。遭うかもしれんと言うのじゃ。)何もかも全く悪くなってしもうた、全く悪くなってしもうた!」
 侯爵は穏かに少量の一撮みの嗅煙草を嗅いだ。そして、国家更生の偉大な手段となるべき、この自分という人間がまだ存在している国家について、いかにもこの上なく彼にふさわしく優雅に落胆したような様子で、頭を振った。
「われわれは、昔でも近代でも、余りわれわれの地位を主張して来ましたので、」と甥は憂鬱に言った。「われわれの家名はフランス中のどの家名よりも憎み嫌われていると私は思います。」
「そうありたいものじゃな。」と叔父が言った。「高貴な者に対する憎悪は卑賤な者の無意識の尊敬じゃ。」
「この辺のどこの土地にだって、」と甥は前と同じ語調で言い続けた。「恐怖と屈従との陰鬱な敬意以外のどんな敬意でも浮べて私を見てくれるような顔は一つだって見当りませんよ。」
「家門の偉大さに対する礼儀じゃよ。」と侯爵は言った。「わしどもの一門がその偉大さを維持して来たやり方から見て当然受くべき礼儀じゃよ。はっはっ!」そして彼はまた穏かに少量の一撮みの嗅煙草を嗅いで、軽く脚を組んだ。
 しかし、彼の甥が食卓に片肱をかけて、思いに沈んで元気なくその片手で眼を蔽うた時、あの精巧な仮面は、それをかぶっている人の無頓著を装《よそお》う態度には不釣合なほど、鋭さと細心さと嫌悪とを強く集中させて、彼を横目にじっと見た。
「抑圧は唯一の永続する哲学なのじゃ。恐怖と屈従との陰鬱な敬意は、なあ、お前、」と侯爵は言った。「この屋根が、」と屋根の方を見上げながら、「空を見えぬように遮っている限りは、あの犬どもを鞭に柔順にさせておくじゃろうて。」
 それは侯爵の想像したほど永いことではないかもしれなかった。この時からわずか数年後のその館と、またやはりこの時からわずか数年後のそれと同じような五十の館との光景を、その晩彼に見せてやることが出来たならば、彼は、火災で黒焦げにされ、掠奪で破壊された、その物凄い廃墟から、どれを自分のものとして主張していいか、途方に暮れたことであろう。彼の誇った屋根について言えば、彼はそれが[#「それが」に傍点]新しい方法で空を見えぬように遮るのを知ったであろう。――すなわち、その屋根の鉛が、幾万の小銃の銃身から発射されて、それに中《あた》った人々の死体の眼から、永久に、空を見えぬように遮る★、という新しい方法である。
「ともかく、」と侯爵が言った。「お前が望まんにしても、わしは家門の名誉と安泰とを保ってゆくつもりじゃよ。だが、お前は疲れているに違いない。今夜は話はこれで切り上げるとしようかな?」
「もうしばらく。」
「お前さえよければ、一時間でも。」
「われわれは、」と甥が言った。「悪事をして来たのです。そして今その悪事の報いを受けているのです。」
「わしたち[#「わしたち」に傍点]が悪事をして来たと?」と侯爵は、尋ねるような微笑を浮べて、最初に自分の甥を、次に自分を優雅に指さしながら、真似て言った。
「われわれの一家がです。その名誉が私たち二人ともにとって全く違った意味で非常に大切なものである、われわれの名誉ある一家がです。私の父の時代だけでさえ、われわれは、何であろうとわれわれの快楽の邪魔をした人間には一人残らず害を加えて、夥しい悪事をしたのです。私の父の時代は同時にあなたの時代なのですから、父の時代のことを話す必要などがどうしてありましょう? 私の父と双生子《ふたご》の兄弟で、共同相続人で、父の後継者であるあなたを、私は父と切り離すことが出来ましょうか?」
「死という奴が切り離してくれたよ!」と侯爵が言った。
「その父の死のために私は、」と甥が答えた。「私にとっては恐しい制度に束縛されることになり、私はその制度に対して責任はあるが、その中にあって権力がないのです。それでも、私の母の口から出た最後の願いは実行したい、母の眼に現れた最後の眼付には従いたいと思っています。その眼付は慈悲を施して罪の償《つぐな》いをするようにと私に懇願したのでした。それで、助力と権力とを求めましたが無駄だったので苦しんでいるのです。」
「そんなものをわしに求めてもだ、のう、お前、」と侯爵は、人差指で彼の胸のところに触りながら――二人はその時は炉の傍に立っていた――言った。「それはいつまでたったって無駄だろうな。そう思っていてもらいたい。」
 彼が嗅煙草の箱を片手にしたまま、彼の甥を静かに眺めながら立っている間、透き通るように白いその顔にあるどの細い真直な線も、残忍そうに、狡猾そうに、きっと引締められた。彼は、あたかも彼の指が短剣の鋭利な切先《きっさき》であって、それで技《わざ》も巧みに相手の体《からだ》を刺し貫きでもするかのように、もう一度甥の胸のところに手をあて、そして言った。――
「なあ、お前、わしはこれまで自分の従って来た制度を続けながら死ぬつもりじゃ。」
 こう言ってしまうと、彼は嗅煙草の最後の一撮みを嗅いで、その箱をポケットに入れた。
「お前も道理のわかった人間になって、」と彼は、卓上の小さな呼鈴《ベル》を鳴らしてから、附け加えた。「お前の生れながらの運命に甘んじた方がいいのじゃが。だが、ムシュー・シャルル、お前にはもうその見込がないようじゃな。」
「この財産もフランスも私にはもうないものです。」と甥は愁然として言った。「私はその二つを抛棄します。」
「二つともお前の抛棄出来るものかな? フランスの方はそうかもしれん。が、財産は? それは言うほどの値打もないくらいのものじゃが、それでも、もうお前の勝手に出来るものか?」
「私の今申しました言葉では、私はそれをもう要求するつもりはないという意味なのです。もしその財産が明日《あす》にでもあなたから私に譲り渡されるとしましても――」
「明日《あす》そうなるということはありそうにもないという自惚《うぬぼ》れをわしは持っておるが。」
「――あるいは今から二十年後にそうなるとしましても――」
「それはまたずいぶん敬意を表したものじゃな。」と侯爵が言った。「それにしても、わしはその仮定の方が有難いのう。」
「――私はその財産を棄てて、どこか他の処で他の方法で生活します。放棄したところで大したものじゃありません。悲惨と廃墟とのごた集め以外の何でしょう!」
「ほほう!」と侯爵は、豪奢な室内をぐるりと見※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]しながら、言った。
「見た眼にはそれはここなどずいぶん立派です。しかし、青空の下、白日で、そのほんとうの姿で見れば、それは、浪費と、失政と、誅求と、負債と、抵当と、圧制と、飢餓と、窮乏と、困苦との、崩れかけている塔なのです。」
「ほほう!」と侯爵は、いかにも満足そうな様子で、再び言った。
「もしそれがいつか私のものになるとしましても、私はその財産を、それを曳きずり倒そうとしている重圧を徐々に除去するに(もしそういうことが出来るとしてですが)もっと適した誰かの手に、委ねます。そうして、ここを立去ることが出来ないで、永い間辛抱の出来る限り苦しめられて来た、あの悲惨な人々が、次の代には、幾分でも苦しみが減るようにします。ともかく、それは私のものにはしません。その財産には、またこの国中にも、呪いがかかっています。」
「してお前は?」と叔父が言った。「余計なことまで聞きたがるのは宥《ゆる》してくれい。お前はお前の新しい哲学に従って有難く暮してゆくつもりかな?」
「私は、生きてゆくためには、わが国の他の人々が、たとい名門の後楯《うしろだて》があろうと、いつかはしなければならないかもしれぬことをするより他《ほか》はありません、――つまり、働くことです。」
「例えば、イギリスで?」
「そうです。そうすれば、家門の名誉がこの国で私のために傷けられる恐れはありませんよ。また、他の国では家名が私のために穢《けが》されるはずはありません。他の国では私は家名を名乗っておりませんから。」
 呼鈴《ベル》を鳴らしたのは隣の寝室に灯火をつけさせるためだった。その室は今、通路の戸口から、ぱっと明るく輝いた。侯爵はその方を見やって、側仕《そばづかえ》の足音の遠ざかってゆくのに耳を傾けた。
「イギリスはお前にはよほど気に入っておるようじゃのう、お前があちらでまずうまくいっているところを見るとな。」と彼は、それから、微笑を浮べながら平静な顔を甥に向けて、言った。
「さっきも申し上げましたが、私があちらでうまくいっていることについては、あなたのお蔭かもしれないと思っていますよ。その他《ほか》のことについては、あそこは私の避難所なのです。」
「奴らは、あの自慢屋のイギリス人どもは、イギリスはたくさんの人間の避難所になっている★と言うておるのう。お前は同国人であすこを避難所にしている人間を知っておるじゃろう? 医者じゃが?」
「ええ。」
「娘と一緒かのう?」
「ええ。」
「なるほど。」と侯爵が言った。「お前は疲れているじゃろう。では、おやすみ!」
 彼が例の極めて慇懃な態度で頭を下げた時に、その微笑している顔には何か隠立《かくしだ》てしているようなところがあったし、彼は今の言葉に何となく不可思議な意味を含ませたので、それが彼の甥の眼と耳とに強く響いた。同時に、あの眼の縁《ふち》の細い真直な線と、細い真直な脣と、鼻の凹みとが、見事に悪魔的に見える皮肉さを見せて歪《ゆが》んだ。
「なるほど。」と侯爵は繰返して言った。「娘と一緒の医者か。なるほど。そこで新しい哲学が始るという訳じゃな! お前は疲れているじゃろう。じゃ、おやすみ!」
 彼のその顔に向って質問することは、館の外の石造の顔に向って質問するのと同様な効能しかなかったろう。甥は扉《ドア》の方へ歩いてゆきながら彼をじっと見たが、何の得るところもなかった。
「おやすみ!」と叔父が言った。「わしは明日《あす》の朝またお前に逢いたいと思うておるよ。ゆっくりおやすみ! わしの甥どのをあちらの部屋へ明りをつけて御案内せい! ――それから、したければ、その甥どのを寝床の中で焼き殺しても構わんぞ。」と彼はこの最後の文句を心の中で附け加え、それから、小さな呼鈴《ベル》をもう一度鳴らして、側仕を自分の寝室へ呼んだ。
 側仕は来てやがて引下り、侯爵閣下は、その暑いひっそりした夜、眠れるようにと静かに体を馴らすために、寛《ゆるや》かな寝間著を著てあちこちと歩いた。柔かなスリッパを穿いた足が床《ゆか》の上で少しの音も立てずに、さらさらと著物の音だけさせて室内を歩き※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]って、彼は優美な虎のように動いていた。――物語にある、改悛の念のない邪悪なある侯爵が、魔法をかけられて、週期的に虎の姿に変るのが、今終ったばかりなのか、これから始ろうとしているのか、どちらかであるように見えた。
 彼は華美な彼の寝室を端から端まで行ったり来たりしながら、ひとりでに心に浮んで来るその日の昼の旅行の断片を再び眼にしていた。日没頃に丘をのろのろと登って来たこと、沈みゆく太陽、下り坂、製粉所、断巌の上の牢獄、凹地にある小さな村、飲用泉のところにいた百姓ども、馬車の下の鎖を指し示していた青い帽子を持った道路工夫などである。その飲用泉は、パリーのあの飲用泉と、段の上に横わっていたあの小さな包みと、その上に腰を屈めていた女どもと、両腕を差し上げて「死んじゃった!」と叫んだ脊の高い男とを思い起させた。
「もう凉しくなった。」と侯爵閣下は言った。「床
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