ール》! 閣下《モンセーニュール》!」
 側仕は彼女を扉《ドア》から押し除け、馬車は急に疾《はや》い早足で駈け出し、馭者は馬の足を速めさせたので、彼女は遥かの後に取残され、そして閣下《モンセーニュール》は、再び蛇髪復讐女神《フュアリー》に護衛されて、彼と彼の館《やかた》との間に残っている一二リーグ★の距離を急速に短縮しつつあった。
 夏の夜の甘い香《かおり》は彼の周囲一面にたちこめた。そしてまた、そこから遠く離れてもいない飲用泉のところにいる、塵まみれの、襤褸《ぼろ》を著た、働き疲れた群《むれ》の上にも、雨の降るように、偏頗なくたちこめた。その群《むれ》に向って、例の道路工夫は、彼の全部であるところの例の青い帽子の助けを藉りて、彼等の辛抱出来る限り、さっきの幽霊のような男のことをまだ頻りに述べ立てていた。そのうちに、だんだんと、彼等は辛抱が出来なくなるにつれて、一人一人と減ってゆき、小さな窓々の中に灯火が瞬き出した。その灯火は、窓が暗くなってもっと星が出て来るにつれて、消されたのではなくて空へ打ち上げられたように思われた。
 その頃、屋根の高い大きな家と、枝を拡げたたくさんの樹木との影が、侯爵閣下に覆いかかっていた。そして、その影は、彼の馬車が停った時に、火把《たいまつ》の光と入れ換った。それから彼の館の大扉が彼に向って開かれた。
「ムシュー・シャルルがわしを訪ねて来るはずじゃが。イギリスから到著しておるか?」
「閣下《モンセーニュール》、まだ御到著ではございませぬ。」
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    第九章 ゴルゴンの首

 侯爵閣下のその館《やかた》は、どっしりとした建物であって、その前面には石を敷いた広い庭があり、二条の彎曲した石の階段が、表玄関の扉《ドア》の前にある石の露台《テレス》で出会っていた。何から何まで石だらけの建物で、どちらを向いても、どっしりした石造の欄干や、石造の甕や、石造の花や、石造の人間の顔や、石造の獅子の頭などがある。まるで、二世紀前にその建物が竣工した時に、ゴルゴン★の首がそれを検分したかのよう。
 侯爵閣下は馬車から出て、火把《たいまつ》を先に立てて、浅く段をつけた幅広の上り段を上って行ったが、その火把はあたりの暗闇《くらやみ》を掻き乱し、彼方《かなた》の樹の間の厩の大きな建物の屋根にいる一羽の梟から声高い抗議を受けたほどであった。その他《ほか》のすべてのものはごく静かであったので、階段を上りながら持って行かれる火把と、玄関の大扉のところで差し出されているもう一つの火把とは、夜の戸外にあるのではなくて、密閉した宏壮な室の中にでもあるもののように燃えていた。梟の声の他《ほか》に聞える物音とては、噴水がその石の水盤に落ちる音ばかりであった。何しろ、その夜は、何時間も続けざまに息《いき》を殺し、それから長い低い溜息を一つ吐いて、また息を殺すと言われるあの闇夜《やみよ》なのであったから。
 玄関の大扉が背後で鏘然たる音を立てて閉《し》まると、侯爵閣下は、古い猪猟槍や、刀剣や、狩猟短剣などで物凄く飾られ、また、今はおのが保護者なる死の許《もと》へ行っている多くの百姓たちが、領主の怒りに触れた時にそれで打たれたところの、太い乗馬笞や馬鞭などでいっそう物凄く飾られている表広間を、横切って行った。
 夜の用心のために戸締りをしてある、暗い、大きな部屋部屋を避けながら、侯爵閣下は、火把持を前に歩かせて、階段を上って、廊下に向いている一つの扉《ドア》のところまで行った。その扉《ドア》がさっと開《あ》けられると、彼は、寝室と他の二室、都合三室の彼自身の私室へ入った。床《ゆか》には凉しげに絨毯を敷いてない、高い円天井の室で、炉には冬季に薪を燃やすための大きな薪架があり、豪奢な時代の豪奢な国の侯爵という身分にふさわしいあらゆる豪奢なものがあった。決して断絶することがないはずの王統★の先々代のルイ――ルイ十四世――時代の流行様式が、この三室の高価な家具に歴然と顕れていた。が、それは、フランスの歴史の古い時代の頁の挿絵ともなるべきところの数多《あまた》の品によって変化を与えられてもいた。
 その室の中の第三の室には、夕食の食卓に二人前の用意がしてあった。そこは、その館の消化器のような恰好★をした四つの塔の一つの中にある、円形の室であった。小さな、天井の高い室で、そこの窓は一杯に開《あ》け放ってあり、木製の鎧戸は閉《し》めてあったので、暗い夜の闇は、鎧戸の石色の幅広の線と互違いに、幾つもの黒い細い水平の線になって見えるだけだった。
「甥めは、」と侯爵は、その夕食の準備をちらりと見やって、言った。「到著しておらぬということじゃったが。」
 御到著ではありませんが、閣下《モンセーニュール》と御一緒のことと思っておりましたので、とのことであった。
「うむ! 奴は今夜は著きそうにもない。でも、食卓はそのままにしておけ。わしは十五分のうちに身支度を整えるから。」
 十五分のうちに閣下《モンセーニュール》は身支度を整えて、選りすぐった贅沢な夕食に向ってただ独り著席した。彼の椅子は窓と向い合っていたが、彼はスープを吸ってしまって、ボルドー葡萄酒の杯を脣へ持って行きかけた時に、その杯を下に置いた。
「あれは何じゃな?」と彼は、例の黒色と石色との水平の線のところをじっと気をつけて見ながら、静かに尋ねた。
「閣下《モンセーニュール》? あれと仰せられますと?」
「鎧戸の外じゃ。鎧戸を開《あ》けてみい。」
 その通りにされた。
「どうじゃ?」
「閣下《モンセーニュール》、何でもございませぬ。樹と闇とがあるだけでございます。」
 口を利いたその召使人は、鎧戸をさっと開《あ》けて、顔を突き出して空虚な暗闇を覗いて見てから、振り返ってその闇を背後にして、指図を待ちながら立った。
「よろしい。」と落著き払った主人が言った。「元の通りに閉《し》めろ。」
 それもその通りにされ、侯爵は食事を続けた。食事を半ば終えた頃、彼は、車輪の音を聞いて、手にしている杯を再び止《とど》めた。その音は威勢よく近づいて、館の正面までやって来た。
「誰が来たのか尋ねて来い。」
 それは閣下《モンセーニュール》の甥であった。彼は午後早くに閣下《モンセーニュール》の後数リーグばかりのところまで来ていたのであった。彼はその距離を急速に短縮したのだが、しかし途中で閣下《モンセーニュール》に追いつくほどに急速ではなかった。彼は閣下《モンセーニュール》が自分の前に行くということは宿駅で聞いていたのだ。
 ちょうどこちらに晩餐の用意がしてあるから、どうか来て食事していただきたい、と彼に言って来い(閣下《モンセーニュール》がそう言ったのであるが)とのことであった。まもなく彼はやって来た。彼はイギリスでチャールズ・ダーネーとして知られている人物であった★。
 閣下《モンセーニュール》は彼を慇懃な態度で迎えた。が二人は握手をしなかった。
「あなたは昨日《きのう》パリーをお立ちになりましたのですね?」と彼は、食卓に向って著席した時に、閣下《モンセーニュール》に言った。
「昨日《きのう》。で、お前は?」
「私は真直に参りました。」
「ロンドンから?」
「そうです。」
「お前は来るのにだいぶん永くかかったようじゃのう。」と侯爵は微笑を浮べながら言った。
「どういたしまして。私は真直に来ましたのです。」
「いや失礼! わしの言うのは、旅行に永くかかったというのじゃない。旅行をする気になるのに永くかかったというのじゃ。」
「私の手間取りましたのは、」――と甥はちょっと返答をためらって――「いろいろな用事のためでした。」
「そうだろうとも。」と垢抜けのした叔父は言った。
 召使人がいる間は、それ以外の言葉は二人の間に交《かわ》されなかった。珈琲が出されて、二人だけになると、甥は、叔父を見つめて、精巧な仮面に似た顔の眼と見合いながら、話を切り出した。
「あなたもお察しのように、私の戻って参りましたのは、私が国を去りました目的を続行するためです。その目的のためには私は大きな思いがけない危険に陥りました。しかし、それは神聖な目的です。ですから、もし私がそれのために死ぬところまで行ったとしても、私はそれをやり通したろうと思います。」
「死ぬところまでということはないさ。」と叔父は言った。「死ぬところまで、などと言う必要はないよ。」
「もし私が、」と甥が返答した。「そのために死の瀬戸際まで連れて行かれたとしても、あなたがそこで私を止めてやろうと気にかけて下すったかどうか、怪しいものですねえ。」
 鼻にあるあの深くなったところと、残忍な顔にあるあの細い真直な線が長くなったこととで見ると、そのことは到底望みがないと思われた。叔父はそんなことがあるものかという抗議の優雅な手振りを一つしたが、それは上品な躾から来たちょっとした形式であることは明かであったので、相手に安心を与えるようなものではなかった。
「実際のところ、」と甥が続けて言った。「私の知っている限りでは、あなたは、私を取巻いていた嫌疑を受けやすい事情に、いっそう嫌疑を受けやすい外見を与えるようにと、殊更にお骨折になったかもしれませんね。」
「いや、いや、そんなことはしないさ。」と叔父は面白そうに言った。
「しかし、それはともかく、」と甥は、深い疑惑の念をもって彼をちらりと眺めながら、再び言い始めた。「あなたの御方針がどうしてでも私に思い止らせよう、そしてそのためにはどんな手段であろうと躊躇しないというのであることは、私は承知しています。」
「のう、お前、わしはお前にそう言い聞かせたはずじゃ。」と叔父は、例の二つの凹みのところを微かに脈|搏《う》たせながら、言った。「ずっと以前にお前にそう言い聞かせたのを思い出してもらいたいものじゃな。」
「覚えております。」
「有難う。」と侯爵は言った、――実際ごくやさしく。
 彼の声は、ほとんど楽器の音《ね》のように、空中に漂った。
「つまりですね、」と甥は言葉を続けた。「私がこのフランスでこうして牢獄に入らずにいられるのは、あなたにとっては不運であると同時に、私にとっては幸運なのだ、と私は信じます。」
「わしにはどうもまるでわからんが。」と叔父は、珈琲を啜りながら、返答した。「説明してもらえまいかのう?」
「もしもあなたが宮廷の不興を蒙ってお出でではなく、またここ何年間もあのように面白からぬ形勢になってお出でではなかったならば、一枚の拘禁令状★で私はどこかの城牢へ無期限に送り込まれていたろう、と私は信じているのです。」
「そうかもしれん。」と叔父は極めて冷静に言った。「家門の名誉のためには、わしはお前をそれくらいまでの不自由な目に遭わせる決心をしかねないからな。いや、これは失礼なことを言ったのう!」
「一昨日の接見会《リセプション》も、私には仕合せにも、例の通り冷いものだったろうと思いますね。」と甥が言った。
「わしなら仕合せにもとは言わぬがな、お前。」と叔父はいかにも垢抜けのした上品さで返答した。「わしにはそうとは信じられんよ。孤独という有利な境遇に取巻かれた、考慮するには持って来いの機会というものは、お前が独力でやるよりも遥かに有利にお前の運命を左右することが出来るのじゃ。だが、その問題を議論したところで無益じゃ。わしは、お前の言う通り、不利な地位に立っておる。そういう小さな懲治の手段、家門の権力と名誉とを守るためのそういう穏やかな助力、お前をそんな不自由な目に遭わせることの出来るそういう些少の恩恵、そういうものも今では伝《つて》を求めてしつこく頼まなければ得られぬことになっておる。そういうものを得ようと求める者は極めて多数じゃが、それを与えられる者は(比較的に言えば)ごく少数なのじゃ! 前はこんなことはなかったのだが、そういうようないろいろのことではフランスは悪化して来ておるわい。わしたちの遠くもない先祖たちは近隣の下民どもに対して生殺与奪の権を持っておったものじゃ。この部屋からも、たくさんのそういう犬どもがひっ
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