何か隠立《かくしだ》てしているようなところがあったし、彼は今の言葉に何となく不可思議な意味を含ませたので、それが彼の甥の眼と耳とに強く響いた。同時に、あの眼の縁《ふち》の細い真直な線と、細い真直な脣と、鼻の凹みとが、見事に悪魔的に見える皮肉さを見せて歪《ゆが》んだ。
「なるほど。」と侯爵は繰返して言った。「娘と一緒の医者か。なるほど。そこで新しい哲学が始るという訳じゃな! お前は疲れているじゃろう。じゃ、おやすみ!」
彼のその顔に向って質問することは、館の外の石造の顔に向って質問するのと同様な効能しかなかったろう。甥は扉《ドア》の方へ歩いてゆきながら彼をじっと見たが、何の得るところもなかった。
「おやすみ!」と叔父が言った。「わしは明日《あす》の朝またお前に逢いたいと思うておるよ。ゆっくりおやすみ! わしの甥どのをあちらの部屋へ明りをつけて御案内せい! ――それから、したければ、その甥どのを寝床の中で焼き殺しても構わんぞ。」と彼はこの最後の文句を心の中で附け加え、それから、小さな呼鈴《ベル》をもう一度鳴らして、側仕を自分の寝室へ呼んだ。
側仕は来てやがて引下り、侯爵閣下は、その暑いひっそりした夜、眠れるようにと静かに体を馴らすために、寛《ゆるや》かな寝間著を著てあちこちと歩いた。柔かなスリッパを穿いた足が床《ゆか》の上で少しの音も立てずに、さらさらと著物の音だけさせて室内を歩き※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]って、彼は優美な虎のように動いていた。――物語にある、改悛の念のない邪悪なある侯爵が、魔法をかけられて、週期的に虎の姿に変るのが、今終ったばかりなのか、これから始ろうとしているのか、どちらかであるように見えた。
彼は華美な彼の寝室を端から端まで行ったり来たりしながら、ひとりでに心に浮んで来るその日の昼の旅行の断片を再び眼にしていた。日没頃に丘をのろのろと登って来たこと、沈みゆく太陽、下り坂、製粉所、断巌の上の牢獄、凹地にある小さな村、飲用泉のところにいた百姓ども、馬車の下の鎖を指し示していた青い帽子を持った道路工夫などである。その飲用泉は、パリーのあの飲用泉と、段の上に横わっていたあの小さな包みと、その上に腰を屈めていた女どもと、両腕を差し上げて「死んじゃった!」と叫んだ脊の高い男とを思い起させた。
「もう凉しくなった。」と侯爵閣下は言った。「床《とこ》に就けるじゃろう。」
そこで、大きな炉の上に一つの灯火だけを燃やしておいたまま、彼は自分の周りに薄い紗の帳《とばり》を垂らした。そして、眠ろうとして気を落著けた時に、夜が長い溜息を一つついてその沈黙を破ったのを聞いた。
外囲の塀の上にある石造の顔は、重苦しい三時間というもの、何も見えずに真黒な夜を見つめていた。重苦しい三時間というものは、厩の中の馬は秣架《まぐさかけ》をがたがたさせ、犬は吠え、例の梟は詩人たちが常套的に梟の声としている鳴声とはほとんど似ていない鳴声を立てた。だが、彼等のものと定めてあることを滅多に言わないのが、そういう動物の強情な習慣なのである。
重苦しい三時間というものは、館の石造の顔は、獅子のも人間のも、何も見えずに夜を見つめていた。深い暗黒はすべての風景を包み、深い暗黒はその静寂をすべての路上の静まり返っている塵埃に附け加えた。墓地では萎《しな》びた草の少しかたまって生えているところが互に見分けがつかぬくらいになっていた。あの十字架についている像は、眼には見えなかったが、そこから降りて来ていたかもしれなかった。村では、収税者も納税者もみんなぐっすりと眠っていた。たぶん、飢えた者が通例するように御馳走の夢をみながら、また、こき使われる奴隷や軛《くびき》をかけられた牡牛がするかもしれぬように安楽と休息との夢をみながら、村の瘠せた住民たちは深く眠って、食物を食べ自由の身となっていた。
暗い三時間を通じて、村の飲用泉は見えず聞えずに流れ、館の噴水は見えず聞えずに落ち、――どちらも、時の泉から流れ落ちる分秒のように、溶け去った。それから、その二つの灰色の水が薄明りの中に幽霊のように見え出し、館の石造の顔は眼を開いた。
次第次第に明るくなってゆき、とうとう、太陽は静かな樹々の頂に触れ、丘の上一面にその輝かな光を注いだ。その真紅の光を浴びて、館の噴水の水は血に変ったように見え、石造の顔は深紅色になった。小鳥の楽しく囀る声は高く賑かであった。そして、侯爵閣下の寝室の大きな窓の風雨に曝された窓敷の上で、一羽の小鳥が力一杯にこの上もなく美わしい声で歌を歌った。それを聞くと、一番近くの石造の顔はびっくりして眼を見張ったように思われ、口をぽかんと開《あ》け下顎をだらりと下げて、怖《お》じ恐れたように見えた。
いよいよ、太陽はすっかり昇って、村では活
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