お父さま、」とリューシーが叫んだ。「御気分がお悪いんですね!」
彼は片手を頭へやって突然立ち上っていたのだ。彼の挙動と彼の顔付とはみんなをすっかり驚かせた★。
「いいや、悪いんじゃないよ。大粒の雨が落ちて来たんでね、それでびっくりしたのだ。みんな家《うち》へ入った方がよかろうな。」
彼はほとんど即時に平静に返った。大粒の雨がほんとうに降っていて、彼は自分の手の甲にかかっている雨滴を見せた。しかし、彼はそれまで話されていたあの発見のことに関してはただの一|言《こと》も言わなかった。そして、みんなが家の中へ入って行く時に、ロリー氏の事務家的な眼は、チャールズ・ダーネーに向けられた医師の顔に、それがかつてあの裁判所の廊下でダーネーに向けられた時にその顔に浮んだと同じ異様な顔付を、認めたか、あるいは認めたような気がしたのであった。
だが、彼は非常に速く平静に返ったので、ロリー氏は自分の事務家的な眼を疑ったほどであった。医師が広間にある例の金色《こんじき》の巨人の腕の下で立ち止って、自分はまだ些細なことに驚かぬようになっていない(いつかはそうなるにしても)ので、さっきは雨にもびくりとしたのだ、と皆に言った時には、彼はその巨人の腕にも劣らぬくらいにしっかりしていた。
お茶時になり、プロス嬢はお茶を入れながら、また痙攣の発作を起した。それでもまだ何百の人々は来なかった。カートン氏がぶらりと入って来たのだが、しかし彼でやっと二人になっただけだ。
その夜はひどく暑苦しかったので、扉《ドア》や窓を開け放しにして腰掛けていても、みんなは暑さに耐えられなかった。茶の卓子《テーブル》が片附けられると、一同は窓の一つのところへ席を移して、外の暗澹とした黄昏《たそがれ》を眺めた。リューシーは父親の脇に腰掛けていた。ダーネーは彼女の傍に腰掛けていた。カートンは一つの窓に凭れていた。窓掛《カーテン》は長くて白いのであったが、この一劃へも渦巻き込んで来た夕立風が、その窓掛《カーテン》を天井へ吹き上げて、それを妖怪の翼のようにはたはたと振り動かした。
「雨粒がまだ降っているな、大粒の、ずっしりした奴が、ぱらりぱらりと。」とマネット医師が言った。「ゆっくりとやって来ますな。」
「確実にやって来ますね。」とカートンが言った。
彼等は低い声で話した。何かを待ち受けている人々が大抵そうするように。暗い部屋で電光を待ち受けている人々がいつもそうするように。
街路では、嵐の始らないうちに避難所へ行こうと急いでゆく人々が非常にざわざわしていた。不思議によく物音を反響するその一劃は、行ったり来たりしている足音の反響で鳴り響いた。だが本物の足音は一つも聞えては来なかった。
「あんなにたくさんの人がいて、しかもこんなに淋しいとは!」と、皆がしばらくの間耳を傾けていてから、ダーネーが言った。
「印象的ではございませんか、ダーネーさん?」とリューシーが尋ねた。「時々、私は、夕方などにここに腰掛けておりますと、空想するんでございますが、――けれども、今夜は、何もかもこんなに暗くって厳《おごそ》かなので、馬鹿げた空想なぞちょっとしただけでも私ぞっとしますの。――」
「私たちにもぞっとさせて下さい。どんな空想だかどうか私たちに知らしていただきたいものですねえ。」
「あなた方には何でもないことに思われますでしょう。そういう幻想は、私たちがそれを自分で作り出した時だけ印象的なのだと、私思いますわ。それは他人《ひと》さまにお伝えすることが出来ないものなんですのよ。私時々夕方などに独《ひと》りきりでここに腰掛けて、じいっと耳をすまして聴いておりますと、あの反響が、今に私どもの生活の中へ入って来るすべての足音の反響だと思われて来ますの。」
「もしそうなるとすると、いつかはわれわれの生活の中へ大群集が入って来る訳だ。」とシドニー・カートンが、いつものむっつりした言い方で、口を挟んだ。
足音は絶間がなかった。そしてそれの急ぐ様はますます速くなって来た。この一劃はその足の歩く音を反響し更に反響した。窓の下を通ると思われるものもあり、室内を歩くと思われるものもあり、来るものもあり、行くものもあり、突然止むものもあり、はたと立ち止るものもあり、すべては遠くの街の足音であって、見えるところにあるものは一つもなかった。
「あの足音がみんな私たちみんなのところへ来ることになっているのですか、|マネット嬢《ミス・マネット》、それとも私たちの間であれを分けることになるのですか?」
「私存じませんわ、ダーネーさん。馬鹿げた空想だと申し上げましたのに、あなたが聞かしてくれと仰しゃいましたんですもの。私がその空想に耽りますのは、私が独りきりでおります時なので、その時は、その足音を私の生活と、それから私の父の生活の
前へ
次へ
全86ページ中59ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
ディケンズ チャールズ の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング