世界怪談名作集
信号手
ディッケンズ Charles Dickens
岡本綺堂訳

--
【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)嶮《けわ》しい

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「言+墟のつくり」、第4水準2-88-74]《うそ》
--

「おぅい、下にいる人!」
 わたしがこう呼んだ声を聞いたとき、信号手は短い棒に巻いた旗を持ったままで、あたかも信号所の小屋の前に立っていた。この土地の勝手を知っていれば、この声のきこえた方角を聞き誤まりそうにも思えないのであるが、彼は自分の頭のすぐ上の嶮《けわ》しい断崖の上に立っている私を見あげもせずに、あたりを見まわして更に線路の上を見おろしていた。
 その振り向いた様子が、どういう訳《わけ》であるか知らないが少しく変わっていた。実をいうと、わたしは高いところから烈《はげ》しい夕日にむかって、手をかざしながら彼を見ていたので、深い溝《みぞ》に影を落としている信号手の姿はよく分からなかったのであるが、ともかくも彼の振り向いた様子は確かにおかしく思われたのである。
「おぅい、下にいる人!」
 彼は線路の方角から振り向いて、ふたたびあたりを見まわして、初めて頭の上の高いところにいる私のすがたを見た。
「どこか降りる所はありませんかね。君のところへ行って話したいのだが……」
 彼は返事もせずにただ見上げているのである。わたしも執拗《しつこ》く二度とは聞きもせずに見おろしていると、あたかもその時である。最初は漠然とした大地と空気との動揺が、やがて激しい震動に変わってきた。わたしは思わず引き倒されそうになって、あわてて後ずさりをすると、急速力の列車があたかも私の高さに蒸気をふいて、遠い景色のなかへ消えて行った。
 ふたたび見おろすと、かの信号手は列車通過の際に揚げていた信号旗を再び巻いているのが見えた。わたしは重ねて訊《き》いてみると、彼はしばらく私をじっと見つめていたが、やがて巻いてしまった旗をかざして、わたしの立っている高い所から二、三百ヤードの遠い方角を指し示した。
「ありがとう」
 私はそう言って、示された方角にむかって周囲を見廻すと、そこには高低のはげしい小径《こみち》があったので、まずそこを降りて行った。断崖はかなりに高いので、ややもすれば真っ逆さまに落ちそうである。その上に湿《しめ》りがちの岩石ばかりで、踏みしめるたびに水が滲《し》み出して滑《すべ》りそうになる。そんなわけで、わたしは彼の教えてくれた道をたどるのがまったく忌《いや》になってしまった。
 私がこの難儀な小径を降りて、低い所に来た時には、信号手はいま列車が通過したばかりの軌道《レール》の間に立ちどまって、私が出てくるのを待っているらしかった。
 信号手は腕を組むような格好をして、左の手で顎《あご》を支え、その肱《ひじ》を右の手の上に休めていたが、その態度はなにか期待しているような、また深く注意しているようなふうにみえたので、わたしも怪訝《けげん》に思ってちょっと立ちどまった。
 わたしは再びくだって、ようやく線路とおなじ低さの場所までたどり着いて、はじめて彼に近づいた。見ると、彼は薄黒い髭《ひげ》を生やして、睫毛《まつげ》の深い陰鬱な青白い顔の男であった。その上に、ここは私が前に見たよりも荒涼陰惨というべき場所で、両側には峨峨《がが》たる湿《しめ》っぽい岩石ばかりがあらゆる景色をさえぎって、わずかに大空を仰ぎ観るのである。一方に見えるのは、大いなる牢獄としか思われない曲がりくねった岩道の延長があるのみで、他の一方は暗い赤い灯のあるところで限られた、そこには暗黒なトンネルのいっそう暗い入り口がある。その重苦しいような畳み石は、なんとなく粗野《そや》で、しかも人を圧するような、堪《た》えられない感じがする上に、日光はほとんどここへ映《さ》し込まず、土臭い有毒らしい匂いがそこらにただよって、どこからともなしに吹いて来る冷たい風が身に沁みわたった。私はこの世にいるような気がしなくなった。
 彼が身動きをする前に、私はそのからだに触《ふ》れるほどに近づいたが、彼はやはり私を見つめている眼を離さないで、わずかにひと足あとずさりをして、挨拶の手を挙げたばかりであった。前にもいう通り、ここはまったく寂しい場所で、それが向こうから見たときにも私の注意をひいたのである。おそらくたずねて来る人は稀であるらしく、また稀に来る人をあまり歓迎もしないらしく見えた。
 わたしから観ると、彼は私が長い間どこかの狭い限られた所にとじこめられていて、それが初めて自由の身となって、鉄道事業といったような重大なる仕事に対して、新たに眼ざめたる興味を感じて来た人間であると思っているらしい。私もそういうつもりで彼に話しかけたのであるが、実際はそんなこととは大違いになって、むしろ彼と会話を開かない方が仕合わせであったどころか、更に何か私をおびやかすようなものがあった。
 彼はトンネルの入り口の赤い灯の方を不思議そうに見つめて、何か見失ったかのように周囲を見まわしていたが、やがて私の方へ向き直った。あの灯は彼が仕事の一部であるらしく思われた。
「あなたはご存じありませんか」と、彼は低い声で言った。
 その動かない二つの眼と、その幽暗な顔つきを見た時に、彼は人間ではなく、あるいは幽霊ではないかという怪しい考えが私の胸に浮かんで来たので、私はそのご絶えず彼のこころに感受性を持つかどうかを注意するようになった。
 私はひと足さがった。そうして、彼がひそかに私を恐れている眼色を探り出した。これで彼を怪しむ考えもおのずと消えたのである。
「君はなんだか私を怖《こわ》そうに眺めていますね」と、私はしいて微笑《ほほえ》みながら言った。
「どうもあなたを以前に見たことがあるようですが……」と、彼は答えた。
「どこで……」
 彼はさきに見つめていた赤い灯を指さした。
「あすこで……?」と、わたしは訊いた。
 彼は非常に注意ぶかく私を打ちまもりながら、音もないほどの低い声で「はい」と答えた。
「冗談じゃあない。私がどうしてあんなところに行っているものですか。かりに行くことがあるとしても、今はけっしてあすこにいなかったのです。そんなはずはありませんよ」
「わたしもそう思います。はい、確かにおいでにならないとは思いますが……」
 彼の態度は、わたしと同じようにはっきりしていた。彼は私の問いに対しても正確に答え、よく考えてものを言っているのである。彼はここでどのくらいの仕事をしているかといえば、彼は大いに責任のある仕事をしているといわなければならない。まず第一に、正確であること、注意ぶかくあることが、何よりも必要であり、また実務的の仕事という点からみても、彼に及ぶものはないのである。信号を変えるのも、燈火《あかり》を照らすのも、転轍《てんてつ》のハンドルをまわすのも、みな彼自身の頭脳の働きによらなければならない。
 こんなことをして、彼はここに長い寂しい時間を送っているように見えるが、彼としては自分の生活の習慣が自然にそういう形式をつくって、いつのまにかそれに慣れてしまったというのほかはあるまい。こんな谷のようなところで、彼は自分の言葉を習ったのである。単にものを見ただけで、それを粗雑ながらも言葉に移したのであるから、習ったといえばいえないこともないかも知れない。そのほかに分数や小数を習い、代数も少し習ったが、その文字などは子供が書いたように拙《まず》いものである。
 いかに職務であるとはいえ、こんな谷間の湿《しめ》っぽい所にいつでも残っていなければならないのか。そうして、この高い石壁のあいだから日光を仰ぎに出ることは出来ないものか。それは時間と事情が許さないのである。ある場合には、線路の上にいるよりも他の場所にいることもないではなかったが、夜と昼とのうちで、ある時間だけはやはり働かなければならないのである。天気のいい日に、ある機会をみて少しく高い所へ登ろうと企てることもあるが、いつも電気ベルに呼ばれて、幾倍の心配をもってそれに耳を傾けなければならないことになる。そんなわけで、彼が救われる時間は私の想像以上に少ないのであった。
 彼は私を自分の小屋へ誘っていった。そこには火もあり、机の上には何か記入しなければならない職務上の帳簿や指針盤《ししんばん》の付いている電信機や、それから彼がさきに話した小さい電気ベルがあった。わたしの観るところによれば、彼は相当の教育を受けた人であるらしい。少なくとも彼の地位以上の教育を受けた人物であると思われるが、彼は多数のなかにたまたま少しく悧口《りこう》な者がいても、そんな人間は必要でないと言った。そういうことは工場の中にも、警察官の中にも、軍人の中にもしばしば聞くことで、どこの鉄道局のなかにも多少は免《まぬか》れないことであると、彼はまた言った。
 彼は若いころ、学生として自然哲学を勉強して、その講義にも出席しているが、中途から乱暴を始めて、世に出る機会をうしなって、次第に零落して、ついにふたたび頭をもたげることが出来なくなった。ただし、彼はそれについて不満があるでもなかった。すべてが自業自得《じごうじとく》で、これから方向を転換するには、時すでに遅しというわけであった。
 かいつまんで言えばこれだけのことを、彼はその深い眼で私と火とを見くらべながら静かに話した。彼は会話のあいだに時どきに貴下《サー》という敬語を用いた。殊《こと》に自分の青年時代を語るときに多く用いていたのは、わたしが想像していた通り、彼が相当の教育を受けた男であることを思わせたのである。
 こうして話している間にも、彼はしばしば小さいベルの鳴るのに妨げられた。彼は通信を読んだり、返信を送ったりしていた。またある時はドアの外へ出て、列車が通過の際に信号旗を示し、あるいは機関手にむかって何か口で通報していた。彼が職務を執るときは非常に正確で注意ぶかく、たとい談話の最中でもはっきりと区切りをつけ、その目前の仕事を終わるまではけっして口をきかないというふうであった。
 ひと口にいえば、彼はこういう仕事をする人としては、その資格において十分に安心のできる人物であるが、ただ不思議に感じられたのはある場合に――それは彼が私と話している最中であったが、彼は二度も会話を中止して、鳴りもしないベルの方に向き直って、顔の色を変えていたことであった。彼はそのとき、戸外のしめった空気を防ぐためにとじてあるドアをあけて、トンネルの入り口に近い、かの赤い灯を眺めていた。この二つの出来事ののち、彼はなんとも説明し難い顔つきをして、火のほとりに戻って来たが、そのあいだに別に変わったこともないらしかった。
 彼に別れて起《た》ち上がるときに、私は言った。
「君はすこぶる満足のように見うけられますね」
「そうだとは信じていますが……」と、彼は今までにないような低い声で付け加えた。「しかし私は困っているのです。実際、困っているのです」
「なんで……。何を困っているのです」
「それがなかなか説明できないのです。それが実に……実にお話しのしようがないので……。またおいでになった時にでもお話し申しましょう」
「わたしも、また来てもいいのですが……。いつごろがいいのです」
「わたしは朝早くここを立ち去ります。そうして、あしたの晩の十時には、またここにいます」
「では十一時ごろに来ましょう」
「どうぞ……」と、彼は私と一緒に外へ出た。そうして、極めて低い声で言った。
「路《みち》のわかるまで私の白い燈火《あかり》を見せましょう。路がわかっても、声を出さないで下さい。上へ行き着いた時にも呼ばないで下さい」
 その様子がいよいよ私を薄気味わるく思わせたが、私は別になんにも言わずに、ただ、はいはいと答えておいた。
「あしたの晩おいでの時にも呼ばないで下さい。それから少しおたずね申しますが、どうしてあなたは
次へ
全3ページ中1ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
ディケンズ チャールズ の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング