、身動きもしなかったから。
「私はこれから来る聖降誕祭の精霊殿のお前に居りますので?」と、スクルージは云った。
精霊は返辞をしないで、その手で前の方を指した。
「貴方はこれまでは起らなかったが、これから先に起ろおうとしている事柄の幻影を私に見せようとしていらっしゃるので御座いますね」と、スクルージは言葉を続けた。「そうで御座いますか、精霊殿?」
精霊が頭を傾《かし》げでもしたように、その衣の上の方の部分はその襞の中に一瞬間収縮した。これが彼の受けた唯一の返辞であった。
スクルージもこの頃はもう大分幽霊のお相手に馴れていたとは云え、この押し黙った形像に対しては脚がぶるぶる顫えたほど恐ろしかった。そして、いざこれから精霊の後に随いて出て行こうと身構えした時には、どうやら真直《まっすぐ》に立ってさえいられないことを発見した。精霊も彼のこの様子に気が附いて、少し待って落ち着かせて遣ろうとでもするように、一寸立ち停まった。
が、スクルージはこれがためにますます具合が悪くなった。自分の方では極力眼を見張って見ても、幽霊の片方の手と一団の大きな黒衣の塊の外に何物をも見ることが出来ないのに、あの薄黒い経帷子の背後では、幽霊の眼が自分をじっと見詰めているのだと思うと、漠然とした、何とも知れない恐怖で身体中がぞっとした。
「未来の精霊殿!」と、彼は叫んだ。「私は今までお目に懸かった幽霊の中で貴方が一番怖ろしゅう御座います。しかし貴方の目的は私のために善い事をして下さるのだと承知して居りますので、また私も今までの私とは違った人間になって生活したいと望んで居りますので、貴方のお附合をする心得で居ります、それも心から有難く思ってするので御座います。どうか私に言葉を懸けて下さいませんでしょうか。」
精霊は何とも彼に返辞をしなかった。ただその手は自分達の前に真直に向けられていた。
「御案内下さい!」と、スクルージは云った。「さあ御案内下さい! 夜はずんずん経ってしまいます。そして、私に取っては尊い時間で御座います。私は存じています。御案内下さい、精霊殿!」
精霊は前に彼の方へ近づいて来た時と同じように動き出した。スクルージはその著物の影に包まれて後に随いて行った。彼はその影が自分を持ち上げて、ずんずん運んで行くように思った。
二人は市内へ這入って来たような気がほとんどしなかった、と云うのは、むしろ市の方で二人の周囲に忽然湧き出して、自ら進んで二人を取り捲いたように思われたからである。が、(いずれにしても)彼等は市の中心にいた。すなわち取引所に、商人どもの集っている中にいた。商人どもは忙しそうに往来したり、衣嚢の中で金子をざくざく鳴らせたり、幾群れかになって話しをしたり、時計を眺めたり、何やら考え込みながら自分の持っている大きな黄金の刻印を弄《いじ》ったりしていた。その他スクルージがそれまでによく見掛たような、いろいろな事をしていた。
精霊は実業家どもの小さな一群の傍に立った。スクルージは例の手が彼等を指差しているのを見て、彼等の談話を聴こうと進み出た。
「いや」と、恐ろしく頤の大きな肥った大漢が云った。「どちらにしても、それについちゃ好くは知りませんがね。ただあの男が死んだってことを知っているだけですよ」
「いつ死んだのですか」と、もう一人の男が訊ねた。
「昨晩だと思います。」
「だって、一体いかがしたと云うのでしょうな?」と、またもう一人の男が非常に大きな嗅煙草の箱から煙草をうん[#「うん」に傍点]と取り出しながら訊いた。「あの男ばかりは永劫死にそうもないように思ってましたがね。」
「そいつは誰にも分りませんね」と、最初の男が欠呻まじりに云った。
「一体あの金子はいかがしたのでしょうね?」と、鼻の端に雄の七面鳥のえら[#「えら」に傍点]のような瘤をぶらぶら下げた赤ら顔の紳士が云った。
「それも聞きませんでしたね」と、頤の大きな男がまた欠呻をしながら云った、「恐らく同業組合の手にでも渡されるんでしょうよ。(とにかく)私には遺して行きませんでしたね。私の知っているのはこれっきりさ。」
この冗談で一同はどっと笑った。
「極く安直《あんちょく》なお葬《とむらい》でしょうな」と、同じ男が云った。「何しろ会葬者があると云うことは全然《まるで》聞かないからね。どうです、我々で一団体つくって義勇兵になっては?」
「お弁当が出るなら行っても可いがね」と、鼻の端に瘤のある紳士は云った。「だが、その一人になるなら、喰わせるだけは喰わせて貰わなくっちゃね。」
一同また大笑いをした。
「ふうむ、して見ると、諸君のうちでは結局僕が一番廉潔なんだね」と、最初の話手は云った。「僕はこれまでまだ一度も黒い手嚢を嵌めたこともなければ、お葬礼の弁当を喫べたこともないからね
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