のでもなささうだつた。
一月の間に女中はおばあさんの身の※[#「えんにょう+囘」、第4水準2−12−11]りの物を運び終ると、いよいよの縁談で暇をとつて行つた。おばあさんの留守宅には本家の長男夫婦が安心してもう住みついてゐるらしい。私自身もおばあさんとの日常に慣れて、着るもののことになど氣を配り出した。おばあさんは死んだ兄の唐棧の半纏を袷に直して、ぼろだからと前掛をかけてゐる。
「だんだんお寒くなるけど、此次には何をお召しになるの?」
「なにといつて、これのほかには、よそいきが一枚あるだけなのですよ。」
「でもこれは良ちやんが死んでから出來たお召物でせう。その前には何を召してらしつたの?」
「それが、――なにか着てゐたのには違ひないんでせうけど、何を着てゐたのかさつぱり憶えちやゐないんですよ。」
「たしか八丈を召してらしつたのを見たことがあると思ふんですが。」
「さうですかしら。でもそんなもの、影も形もありやしません。」
私は急に暗然としてきた心中を隱しきれない氣がした。その時どきの應酬はどうかすると吃驚させられるほどテキパキしてゐるのだが、どうかすると又、あれと云ひたくなるほどよく知つてゐる筈のことを忘れてゐる。私には影も形もなくなつたものが着物だけとは思へなかつた。何といふ哀れなおばあさんになつてしまつたのだらうと私は涙ぐんだ。
「よそいきは躾のまま生遺物《いきがたみ》だといつておくばりになつたやうでしたけど、不斷着が一つもないといふのはをかしいですね。ともかくそいぢや、うちのぼろを出してみることにしませう。」
私は早速二階に上つて、彼の腰の拔けた八丈や、何年にも着たことのない羊羹羽織を出してきた。おばあさんは、こんな立派なものをと、又そわそわし出した。急いで仕立に出さなければと私が云ふと、お正月におろすのだからゆつくりでいいと、夢見るやうな目をした。
七
その晩も彼はおばあさんの寢たあとへ歸つてきた。
「これ、社に來てゐたよ。」
ポケットから出したのは私宛の電報だつた。良郎氏の住所を教へてくれ、ゴリキー全集に彼の「母」を入れたいといふ長い假名書だつた。私は目を大きくして唐紙越しにおばあさんの寢てゐる方を見た。出版社では良郎のとうに死んだことさへ知らないくらゐだから、おばあさんの此處にゐることなど判る筈はない。使ひ果して裸にまでなつた
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